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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    二 坂井平野の地主制
      作徳外字
 外字米には、地主取り分である作徳と領主への貢租と村費が含まれている。地主にはそのうちの作徳のみを納入し、領主への貢租・村費等は小作側が直接納入する契約を結ぶ場合は作徳外字と呼ばれた。小島家には延宝二年(一六七四)の一作請田証文を初めとする小作関係証文が残されているが、その中に数点の作徳外字証文があるので、作徳外字の特色をみてみよう。
 正徳五年(一七一五)野中村の次右衛門等三人は合わせて五石五斗本を小島家に五両二分で売却した。これは翌年から小島家に引き渡すはずであったが、売り主次右衛門等三人がそのまま耕作し(直小作)、小島家には作徳銀六六匁を毎年十月中に納入し、「御年貢并村並之諸役等」は直接三人が負担する。作徳銀遅滞の場合はただちに取り上げられても異議はないと契約した。
 高持百姓が自己の名請けする田地を売った場合、その分の貢租や村費などが課せられないので村内での地位が下がり、身分も水呑に転落する場合があった。領主への貢租や村費を納めてなるべく従来の地位・身分を維持しようと図って行ったのが作徳外字契約である。文化十年(一八一三)の「無高」善右衛門の場合は、「御高六石六斗四升」を作徳銀一石につき四匁計二六匁五分六厘で本人がとくに「御頼申上」げ「作徳外字」にしてもらった。「作徳銀」「御納所筋并村方立銀」は「如何様之儀出来」しても納めるとあり、請人が立てられている。これは村内での地位・身分の向上をねらったものであることは明らかである。次右衛門等が売った田地を買い戻し、名実ともに従来の地位を取り戻し、また善右衛門が名請地を手に入れ百姓となれたかどうかは明らかでない。
 このように作徳外字は村内での地位を維持したり、新たに獲得するというねらいがあったのであるが、外字米納入の場合に比べると負担が重かった。地主への作徳、領主への貢租負担は変わらないとしても、村費は高割と家割の組合わせで、しかも次第に高割に重点が移っていた。外字米納入の場合はその分の高割がゼロになるはずがそのまま負担として残るからである。作徳外字外字米納入に比して負担が重かっただけでなく、名請人でなかったので契約が破棄されれば維持しようとする地位からたちまち転落する結果となった。
 一方地主側は、外字米収取から貢租・村費納入までの間の米価高騰などによる運用益がないことや、貢租が下がった場合のうまみがない。これは米価高騰による地主の作徳値上げ要求や、小作側の新負担拒否など紛争の火種となっていた。



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