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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    一 地主小作制度の成立
      千秋家の経営
 天保の飢饉後の地主経営を丹生郡田中郷乙坂村(村高九八八石三合)の千秋家にみることができる。当家は寛政四年から鯖江藩乙坂組大庄屋を勤めた家である。延享元年(一七四四)「乙坂村子内検田畑野帳」には七三石五斗八升一合の百姓として姿をみせている。それが万延元年(一八六〇)までに二八〇石余と、百十余年間に三・八倍に田畑を集積し、そこから五〇石の分家もたてたので二三二石九斗九升四合となった。
 明治二年(一八六九)の「山林田畑卸方帳」によると、持高二二三石四斗四升(田九町五反二九五歩余、畑四反二九六歩余、屋敷四二九歩余、山林二一か所余)、うち手作は田八反一七七歩余、畑一反八〇歩、外字は田八町七反一六三歩、畑三反二一六歩、屋敷二〇七歩余となっている。またこの帳面によれば文政六年から天保十二年の二二年間に八二石五斗、うち天保期一〇年間で六七石五斗が集積され、それはすべてそのまま外字にされている。明治二年には表50のように千秋家の小作人は五八人におよぶ(全員村内)。ただし六人は割地などの関係で貸借関係が生じたもので、持高も多く小作人の範疇にはいらないものであるから実際は五二人となる。小作人のうち二三人は百姓で、その最高持高は一四石余である。二九人は無高の水呑である。請作高の最高は百姓の場合田四反一三三歩、畑一二〇歩、小作米一七俵一斗五升一合であり、水呑の場合では田四反、小作米一七俵三斗七升二合七勺であった。これらの小作人から収取する小作米の総計は明治元年では三五九俵二斗五升六合一勺であった。しかし、そのうち小作人三四人から合計五二俵三斗四升四合四勺(一四・八パーセント)が残米(未収)となった。残米の処理は二四人については貸付けとし、後ほど元利を返済させ、残りの一〇人については差引帳という帳面に記し、雇いなどの手間賃と相殺することになっていた。同二年千秋家は村内の困窮者二五軒に二升ずつの救米を、うち一〇家族三〇人には毎月二回一人一合ずつの粥施行を行っているがその大部分は千秋家の無高小作人であった。

表50 丹生都乙坂村百姓の持高と千秋家小作人

(準備中)

 なお、小作米は一歩当たりが決められており、上田・上麻畑が六合から五合五勺(反当一石八斗から一石六斗五升)、中田・中畑が五合(反当一石五斗)、下田四合一勺六毛(反当一石二斗四升八合)、草畑三合(反当九斗)となっており、幕府が外字米を調査したころに比して格段に高率となっていることが注目される。しかし千秋家に対し、他村の小作人の排除を強く要望するなど、小作人になることを希望する者が多かった。
 なお千秋家の手作は田八反一三二歩余、畑一反八〇歩余であるが、外字米で計算され三八俵三斗余の収入となっている。これは手作といっても実際は奉公人の請負という面が強く、それらの諸経費を引いてあげたものであろう。当家の手作の労働力と考えられるのは、まず奉公人(家来)で男では月一五日奉公が一人、給米は米二俵と京升一斗一升四合、月二〇日奉公二人、給米は一人米三俵で計六俵である。以上三人は同村の者で千秋家の小作人でもある。この三人の給米はすべて三人の納める小作米で清算されている。下女二人、給銀は一人が五〇〇匁に木綿、一人が四〇〇匁に木綿となっていた。二人とも他村の出身である。そのほか臨時の雇い人がある。田植えは奉公人三人と下女二人のほかに男七人、女五人を雇い人とし、田植えの日と田植えの際の雇い人の役割は正月に決められた。ここには、家長が先頭に立つ家族労働と奉公人による手作という姿はもうみえなくなっている。
 手作と外字の収入は三九八俵余りということになろうか。そしてこれに対する貢租は本途一五二俵七升一合、小物成一三石、永五九〇文となっている。村費を納入してもその差額は大きかったと言わなければならないであろう。



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