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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    一 地主小作制度の成立
      天保飢饉と地主制
 天明七年(一七八七)の鯖江藩触書は、田畑請外字について、地主は外字米を決めて小作より「極書付」を取り、収納の時に小作より地主へ「不法」を申しかけられないようにせよ。悪作の際の減免は地主の勝手次第とするが、村法を守り、村中残らず(地主小作ともに)承知納得するようにせよと注意し(千秋勝稔家文書)、さらに天保五年(一八三四)には、豊凶天災は人力の及ばないところであるが、豊年の時には凶作のことを忘れず、領主の高恩をありがたく思い、水呑は地親の恩儀を心得万事質素倹約すべきであるのに最近は分限を超えた衣服を着用し、平生不相応の生活をし、「作方取り劣り候節ハ申合過分之小作米をねた」るということである、今後、このように小作米を滞らせる者については村役人は届け出よ、等閑にすれば村役人も越度とすると叱責を加えた(吉田弥重郎家文書)。いずれも小作側の成長とその要求が強まってきていることがわかるが、藩側の地主擁護の姿勢も著しい。これは各藩に共通した姿勢であった。
 大野藩西方領丹生郡織田・三崎・中の三か村は天保飢饉後虫付きとなり凶作は必至であったので、減免とそのための検見の願書を大庄屋役所へ提出した。大庄屋役所では、それは我慢して少々の拝借を願い出たらどうかと説得したが、三か村はあくまで強硬に減免と検見の願いを取り次いでほしいと要求するので、しぶしぶ藩に取り次いだ。三か村が強硬であったのは虫付きの被害が大きかったことにもよるが、大庄屋の藩への報告によれば、(1)天保の飢饉以来世情人夫が激減し、農作業に十分手が回らなくなったこと、(2)一方小作人も減って、小作人からは生活が逼迫しているので年貢を下げてくれという要求が強まり、聞き入れないと揚げ田をして対抗すること、(3)このため地主は年貢を莫大に引き下げなければならなくなったこと、(4)高を多く持っている者ほど小作人の「横虫」(横暴)に苦しむ結果となり、(5)たまりかねた村々中分以上の高持が村々役人に対し小作人の横暴を注意してほしいと願い出、大庄屋からも各村役人に厳重注意を指令したが、村役人からの返答は「何ヲ申ても左様六ケ敷事ニ御座候ハゝ受け田ハ辞」と言い張るのでお手上げだということであった(木下伝右衛門家文書)。
 天保の飢饉により小農民は貧窮化した面もあったが、このようなしたたかな一面もあったのである。これも各地に共通したことであった。一方地主の場合でも倒産に追い込まれる例もあったが、先述丹生郡樫津村田中家では、天保七年には廻米六〇俵のうち四〇俵が免除されたので年間の収支は「一俵過上」となった。しかし天保十年には外字の取立てが二、三分からよくて五分くらいで手作分七〇俵分がやっと二五、六俵しかとれなかった。廻米は六〇俵のうち三〇俵が免除されたが結局収支は「三俵不足」となっている。外字米の残米(未納分)は大部分貸付けとなる。当家の毎年三月切りの貸付け残高をみると、文化六年(一八〇九)から文政十二年(一八二九)の二一年間の平均が三貫八五六匁、天保元年から十二年までの一二年間の平均は一五貫一〇八匁と激増している(田中甚助家文書)。このように飢饉に際しても、地主は減税によって小農民に比べてより打撃が小さかっただけでなく、それは土地集積の機会ともなったのである。



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