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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    一 地主小作制度の成立
      幕府の外字米調査
 越前の幕府領では正徳(一七一一〜一六)期に外字米・作徳米の調査が行われている。地主小作制度が浸透し変貌した村の実態を把握しようとしたものであろう。正徳四年に吉田郡志比境村が作成した「田畑作徳米帳」は、「作徳米御尋被遊候ニ付」とあるように、そのために地主取り分を中心に作成されたものである(表48)。これによるとこの村の反当上中下平均分米は三石六斗七合四勺と設定してある。「越前ハ石盛高き」ところで、西尾藩領だけでも最高三石五斗を初め「百弐拾三通」りあったといわれるが(「地方御答書」高橋勘右衛門家文書)、これはその最高額を上回っている。しかしその反当出来米(現実の反当収穫米)は一石二斗とやや低く設定して、そのうち外字米は一石五升としている。その差一斗五升(収穫米の一二・五パーセント)は小作の取り分である。その外字米の内訳は貢租関係では取米六斗一升四合の他、口米・伝馬宿入用・川役・蔵前入用・口銀包賃など計六斗五升二合九勺となり(外字米の六二・二パーセント)、その他懸り物雑用として廻米欠代・廻米前割銀・廻米津出懸り物・廻米駄賃・金納値段違米・庄屋給米・廻米俵入欠米・村入用人足代銀など計二斗四升七合三勺(外字米の二三・六パーセント)があるので、総計は九斗二勺(外字米の八五・七パーセント)となる。これが領主への貢租および村費である。外字米一石五升から九斗二勺の差一斗四升九合八勺(外字米の一四・三パーセント)が地主の取り分すなわち作徳米となる。これは小作取り分とほぼ同額である。

表48 吉田郡志比境村の頁租・米・作徳・小作取分

表48 吉田郡志比境村の頁租・米・作徳・小作取分


表49 丹生郡天王村の小作人上米・作徳米

表49 丹生郡天王村の小作人上米・作徳米

 外字米は契約により前もって決まっているので、現実の収穫米一石二斗が増えるとその分小作の収入は増える。その逆となれば小作の収入は減り苦しくなり、減免要求となる。一方地主作徳米が増えるのは、分米に課せられる貢租が固定されている中で、外字米を上げるか、または外字米が固定した中で貢租が下がる場合である。その逆の場合は地主の取り分は少なくなり、採算に合わない場合も起こってくる。しかし基本的にはこの村では、外字田においては地主取分と小作取分をほぼ同額に設定していることに注目したい。
 地主手作の場合も現実の反当収穫高を一石二斗、貢租関係、懸り物関係は同じ総計九斗二勺であるから、その差は二斗九升九合八勺となり、作徳米は外字の倍となる。反当収穫高が増えればその分、地主作徳米の増加となる。幕府の調査は貢租を納入した後の剰余や、その剰余の取り分をめぐる地主小作のせめぎ合い、その貢租徴収への影響を知るために行われたのである。ただこの調査に高割・家割で課される村費が正確に反映されているか否かは疑問が残る。
 また、元文(一七三六〜四一)から宝暦(一七五一〜六四)にかけて越前における幕府領の村々では、「田畑屋敷質入直段」や「小作入上米」「作徳米」「竹木直段」などの調査が行われている。田畑は上中下の等級別となっている。これには雛形があり、この頃作成された村明細帳にも記載されているので、これも幕府の調査に対応したものといえる(表49)。



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