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 第二章 農村の変貌
   第二節 地主制の展開
    一 地主小作制度の成立
      外字の一般化
 手作中心から外字が一般的になり、大高持が外字に重点を置くようになってくる目安は史料の面からみると小作関係証文や小作台帳たる「外字帳」、村の土地台帳に面積・石高と並んで外字米の表示が現れる頃である。また売券類にも小作関係をうかがわせる内容のものがあり参考になる。土地台帳に外字米の表示されている早い例は今立郡金屋村の寛文三年(一六三三)の高反別帳で村高一六六石八斗七升五合(百姓四軒)の全田畑一筆一筆に面積・石高・外字米が記されている。その外字米の合計は九一石八斗五升で村高の五五パーセントとなっている。小作関係証文は元禄(一六八八〜一七〇四)期以後に、外字帳は享保(一七一六〜三六)期以降に多く現れる。
 延宝二年(一六七四)から貞享二年(一六八五)までの一二年間に、田五四石余、山六〇か所を永代売買で集積し、貞享二年には持高一三三石余となった丹生郡樫津村田中甚助は、その書置で「田方下し候而手作少可仕候、牛馬・下人多召遣候事大悪事也」とまでいって、外字に重点を置くべきことを強調している。下人や牛馬の費用が手作の採算があわなくなるほど高騰したことがうかがわれる(田中甚助家文書 資5、本節第四項)。
 元禄九年丹生郡大森村の二三歳の後家千代は、幼子二人をかかえ家の維持が困難となったので親戚一同の勧めで同郡田中郷天王村から後夫を迎えることにした。その時、親戚代表が相手後夫方に渡した覚書によると、千代の家の経営の実情は次のようであった。(1)持高一〇六石の手作と外字による収入、これは外字米がその年の「免」によるので一定せず、具体的にはここで書き上げられない。近年村は困窮続きで外字米は下がり続けて二、三年前までは免三つ五、六分であったものが今年は二つ八分となっている。今後は手作経営に切り替えたほうがよいと思われる。なお一五石は後々譜代二人に譲り独立させることになっている。(2)山の収入は米二五俵と銀一〇〇匁である。(3)そのほか蚕五、六〇枚飼う分の桑畑、自家用の茶畑などがある。(4)油は作らず、ともしびの分を買い立てている。(5)来年八月までの「作喰」は準備ずみである。(6)家族は三人(後家と幼子二人)、労働力としては譜代下人男四人・女四人、馬一匹である。(7)年貢未進や家計支出で三三両の借金が残っているというものであった。ここでいう免は高に対する外字米率で困窮の村にあっては外字米率が下がり貢租に引き合わなかった様子がうかがわれる。外字制度にはまだ不安定な要素もあったことを示している。
 享保三年丹生郡天王村の内藤武左衛門は、自己の名請地である全田畑屋敷山林一〇〇石五斗の一筆一筆の有坪と外字米を書き上げた「高百石五斗田畠山切畑外字付帳」を作成している。それによると、外字米は田方六六石八斗九升、畠・畑方一四石一斗一升七合、屋敷一石三斗、山林二石三斗と山手銀であり、総計は八四石六斗七合となっている。この一〇〇石五斗は手作分と外字分とに分かれるのであるが、それについての記載はない。それは請作人が毎年契約によって決まるからである。
写真23 他国出候者証文留帳(部分)

写真23 他国出候者証文留帳(部分)

 享保五年この武左衛門が八人の請作人との間で結んだ小作契約書「一作請田米証文」によれば、いずれも一作請田(一年間の小作)で、一月から三月にかけて契約し、有坪と外字米のみが記載され、面積や石高の表示はない。「年貢米」納入は十月二十日限り、悪作のときは実情を調べて減免措置をとることなどが記され、保証人が立てられている。このように外字は小作契約書を取り交わすのが一般的となっていたが、口頭での契約もあった。
 この地方ではまだ永小作の慣行は成立していなかった。西尾藩では越前で藩領が成立した際、貢租関係の調査をした。それに対する天王陣屋に駐在する地方役の報告書である明和四年(一七六七)「地方御答書」(高橋勘右衛門家文書)では「弐拾ケ年以上ヲ永小作与唱候而地主外字無故取返他人ヘ為作候事不成」という例があるかとの問に対し、「可有御座歟ニハ奉存候得共、取扱候無御座候」と答えて永小作慣行の存在を否定している。なお当家の寛政元年(一七八九)「田畠外字米差別帳」によれば、小作地は隣村三村にも広がり、小作人四〇人、小作米収入一六〇俵余、手作りの収穫は五八俵余で、奉公人は男七人、女四人となっている。



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