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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      他国稼ぎの普及
 前述したように、農民が他国・他領へ稼ぎに出ることは厳しく取り締まられ、必ず届け出て許可を得ることになっていた。
 そうした許可制のもとで近世前期に他国へ行った個々の事例はいくつも知られるが、今はまとまった記録を示そう。まず、坂井郡野中村の組頭支配下の村々で、貞享二年(一六八五)と三年に他国へ出た者の一札証文を写した「他国出候者証文留帳」(小島武郎家文書)があり、貞享二年は六件一三人、三年は六件一五人である。その理由をみると、駒買い・駒引き、つまり伯楽商売が五件九人と多く、越中へ三件のほか越後と上野・下野の国々へ行っており、野州で商いをして帰る場合は二か月余りの期間を申請している。また水主(船乗)に一件二人、大坂へ四か月半の予定で商いに行く一件一人があって、以上が稼ぎを目的としたものである。他は七月の後半をかけて三か村から六人が白山・立山参りに出かけている。証文は二通に分かれているが同日に出立しているので同行したのであろう。京へ年忌のため行く者一件一人、ほかに理由不記で八人連れが七月後半に京へ行った一件があり、病気のため七月下旬の七日間を山中へ入湯に行った一件一人がある。これらはいずれも二月下旬から七月中に出かけており、それ以外には出ていない。
 同じ組頭支配下の元文元年の場合は、『通史編3』三七二頁でも触れたように、九一七軒から組内へ出奉公人三六六人があるほか、「他所奉公」が三七九人で、うち一〇九人が「江戸稼」であった。享保の飢饉の直後であるためか出奉公が多く、他国稼ぎは江戸が多かったようである。江戸稼ぎに限れば一〇軒に一人余りになる。
 次に示すのは明治二年五月の坂井郡江上村大庄屋支配下の他国稼人の調査書上「乍恐御達書之覚」(久津見守雄家文書)である。全部で二二人を書き上げてあるが、その内一四人は「行衛相知不申候」と記されている。この書上はむしろ行方不明者を調査したものと考えた方がよいと思われるが、数年前、十数年前に稼ぎに出た者だけでなく、一年前に出た者も行方不明になっている。残り八人は居所がわかり、中には三一年前に出て近江に居住している者、八年前に出て大坂居住の者もいる。そこで、行方不明者が告げて行った行き先も含めて居所を教えると一六人がわかり、上方五人、大坂四人、京都二人、江戸二人、箱館・近江・上総が各一人である。また戸主との続柄では戸主本人五人、倅一〇人、弟六人、娘一人である。なお、稼ぎを目的として出た者が一八人で、あとは追放・勘当・家出で、これはすべて行方不明者である。
 いま一例、明治四年、足羽郡第一〇区九番組の村々の八月二十四日(新暦十月八日)から十月二十日までの出稼人を記した「藩印渡留」(上田重兵衛家文書)をみよう。藩印を押すのであるから当時も取り締まっていたことがわかるが、この五〇日間ほどで二二件二六人が出ている。うち、最初の例は、朝谷村の主婦のいない一家五人が近江高島郡へ「家内中奉公稼」に行っている。「奉公稼」と「冬稼」は区別されており、奉公稼は右のほかに三件のみで他は冬稼ぎである。そして冬稼ぎには翌年の「壬申二月二日帰宅仕候」といった後筆の注記があるもの七件、ないもの一一件である。これらの行き先は近江八件、大坂七件、京都三件、伊勢二件、福井と不明が各一件である。
 この冬稼ぎ・奉公稼ぎを出している村は東天田村一三件、西天田村四件、境寺村と朝谷村が各二件、小宇坂島村一件である。この五か村の明治五年の家数は合計一六一軒であったから、一〇軒当たり一・六人を出したことになる。戸主との続柄は、本人が二人、倅・二男が一三人、弟四人、妹と不明が各一人および右の一家五人である。中には東天田村から四人が揃って近江蒲生郡八日市在へ冬稼ぎに行っている例や、二人連れで同じ所へ行くのが三例ある。
 以上、四つの例をみたが、通してまとめてみると十七世紀後期に他国稼ぎをするのは伯楽など限られた人や、信仰上などの理由での旅行者であったし、大庄屋組下から年に十数人と数も少なかったが、十八世紀前期の凶作時には坂井郡で江戸その他への出奉公がかなりみられた。幕末・明治初年には主に上方や近江へ、越前北部では江戸等へも、冬稼ぎや奉公稼ぎのために、倅・弟などのおそらく若者が、五か村から二六人だったようにかなりの人数が出かけていた。中には帰国せず郷里と音信を絶ったまま行き先で暮らす人もあって、それだけ取締りも緩んでいたとみなすことができ、他国稼ぎが普及している様子を知りうる。



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