目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      明細帳類にみる農間稼ぎ
 村から書き上げる「村明細帳」類に「冬春男女励」とか「耕作之間々稼」を記したものがあるので、約二二〇点ほど管見した限りで述べてみよう。もっとも、記載に精粗があり、自給用の藁細工の農具や裂織などの仕事も記すものや、それらを収入ではないと理解して記さないものなど一様でないが、大部分の村では男は縄・莚・俵・草鞋・馬沓などの藁工品を作り、女は苧外字(綛)・布・木綿などの仕事をしている。山方では加えて杪・柴などを採っているといえるが、中には、それと少し異なり特徴のある稼ぎを持つ村もみられる。以下、越前の各郡ごとにあげておこう。
 吉田郡について安永二年の明細帳をみると、冬春の男女励みは大体一様に莚・縄や俵・馬沓・草鞋などを作り、苧外字と蚕飼をしており、一部では木綿も織っている。特殊な例では、同年の八重巻村は縄・外字のほかに日雇稼ぎをあげており、古市村では「米とふし(外字)」を製作していた。
 今立郡では桑木・漆木・麻苧、また楮木もある村が多く、それにともなって「こかい(蚕飼)」をしたり、麻苧を外字にして売る村々があり、楮木は紙漉所の五箇へ売っていた。また炭焼き、焼灰を農間の所作として記す村もある。享保六年の明細帳では、大体は一つの村で藁仕事や苧外字・蚕飼・漆掻きを少々ずつ行うとする村々が多いようである。ところが、天保十三年の明細帳では、右の生産物に加えて菜種を数本から十数本、時には二〇本以上生産すると記していることが注目される。新しい商品生産が加わったのであるが、当時の鯖江藩の国産奨励策にもよるのであろうか。
 その他の例では、大本村は山村で戸数も多いので、正徳三年(一七一三)には春はうど・わらびを採って市町で売り、炭焼きをし、夏は製紙に使うあく灰を焼いて五箇へ運んで売っていた。なお天保十三年の記載では、やはりあく灰を売るが、春は薬草の葛根や「ぢうやく」を掘るとある。片山村は享保六年に「古来より作間稼ニ塗師細工ヲ仕、男女共夫々のぬし方仕候」と記している。この村は河和田塗の中心地であった。
 坂井郡の村々は近世中期頃には藁仕事と苧外字、木綿が多いが、蚕飼する村もいくらかある。また文政、天保期になると「はた」(機織り)を記す村もある。藁工品では文政元年の下小森村で「井堰土俵」を作っている。安永二年に細呂木村やそれより加賀国境の村々では「いつり紬」を作っていた。権世村は「いつり紬」などの他、山中谷より炭杪を賃持ちしていた。延享元年(一七四四)、文政元年の取次村は男が「小商」をし、女は太布を織って稼いでいた。九頭竜川下流の池見村・米納津村は川漁の網を曳いており、安永二年の宿浦は日雇に出、角屋村は元禄八年(一六九五)には三国へ蕪を売りに行っていた。また文政元年西野中村の場合は畑ばかりの村であったため、三国から人糞尿を買って麦・菜種の肥料としていた。北潟湖畔の北方浦には川漁師・魚商人などがいた。安島浦は男女とも海漁が主業で、その間に農業に励み、また商売のため商い船に乗り、女はわかめなどの海藻を採って所々へ売りに行っていた。町場の南・北金津は百姓と商人が入り交じっており、吉崎や浜坂浦は肴商人など他が入り交じっていた。
 大野郡の村々では藁工品・苧外字・木綿が多いが、煙草を作る村があり、蚕飼や漆掻きをする村も少し知られる。旧暦の十月から雪中なので耕作の外の稼ぎはないとか、女の苧外字・裂織は自給用であると記した例もあるが、元禄十一年の横倉村は加賀の山を請山して炭焼きや薪取りをして勝山町へ運んで売り、女は雪の間に苧をうみ裂織を作り、春になれば男の炭焼きの手伝いをし、「起炭」を問屋へ運んで売っていた。下荒井村は宝暦十年に男は大野・勝山への駄賃持が少しあると記すが、寛政十二年は村での稼ぎはなく、他所の町方等へ奉公に出ていると記していて、稼ぎに変化のあったことがうかがわれる。また河合村の場合は宝暦八年に勝山町から牛首村へ駄賃持をしていると記し、享保六年の西俣村は一里余りはなれた芦見村の山を毎年一作買して杪・柴稼ぎをし、勝山町へ売り出していた。巣原村の場合は元禄十一年に「紙草」(楮であろう)を採って売り、飯米の足しにしていた。桧曽谷村の宝暦十年、文化元年(一八〇四)の記事では冬は農具を拵えるが、大雪の年は「雪掘」(雪掻き)をしているので他の仕事をする間がなく「農具買求田入申候」とある。田に入れる農具とは肥料のことであろう。
 丹生郡も藁工品と苧外字などが主であるが、蚕飼や油木・楮木で利潤を得る村もあった。宝暦十年の片屋村は藁細工類を「市場へ出シ」ており、そのため、この村では冬春に限らず一年中朝夕にすべての農家の男が藁細工をしており、女も一年中布外字の類を稼いでいると記している。また、下河原村は宝暦期に売木・薪を市場へ出しており、下大虫村は享保六年、麻苧を作付け、正月から三月、四月までに嶋(縞)布に織って売り出していた。つまり作付、製糸、織布の三工程は分化せず、一貫生産されていた。また浦方の厨浦の場合は、三月・四月から九月までは女は塩稼ぎ、男は塩焼きのための薪を採っており、その暇に耕作に従事していた。
 最後に南条郡では藁工品・布・苧外字のほかに杪・薪稼ぎなどの例が知られ、宝暦八年の阿久和村の男は杪山のみ、瀬戸村の天保期の男も薪・杪など、年不詳の赤萩村の男の冬稼ぎは楮子と炭と記されている。そして、明治四年(一八七一)の大谷村では男は敦賀へ木・薪を運送し、炭を焼いていた。また、年不詳の東大道村では女は「布・もめん(木綿)等随分売払、御納所足シ米ニ」していたが、「切レ一尺ニ而も染申事、村法度ニ仕候」とも記されている。事情は詳かでないが、売出しに当たって染色工程を他所に任せる必要があったのであろう。



目次へ  前ページへ  次ページへ