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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      在方商い・出稼ぎの取締り
 十八世紀後期になると、百姓の商人化や出稼ぎが増えたことに対する取締り令が出されるようになる。
 早くは、明和五年(一七六八)十一月の福井藩の触で、近来は農民に「商を家業と致者」があり、はなはだよろしくない。田畑を荒し、村の衰微の基になるので今後は認めないと申し渡している。出稼ぎについては、安永四年(一七七五)六月に、近年「他国江外字ニ罷出候儀」を願う者が多く、また江戸で福井藩士に奉公している者が病気を申し立てて居残る事もあるが、これでは在方が人少なになって困るので厳しく取り締まり、もし忍んで出る者があればその村役人、五人組頭を罰すると申し渡している。領主の法では、とくに他国・他領へ行くことを厳しく取り締まっており、行き・帰りとも届け出る決まりであった。
 以後、在方の商いと出稼ぎに関する触は何回も出されるが、その中で、文政十一年(一八二八)二月に触れ出された在方への倹約令では、農業への出精、国産(領内産)品使用の奨励、栄耀な家普請の禁止、藩役人宅への猥りな出入と音物の禁止などとともに、
 一、他国稼ぎを、みだりに願わない事
 一、子供が多いとか病身などで農業を勤められないので小商いをしたいとの願が次第に多くなっているが、元来村方での商いはよろしくないので、なるだけ農業または「手励」をして渡世する事
という箇条がみられる。
 村方での小商いについては、天保三年(一八三二)正月にも近年猥りになったとして触書を出しているが、それによれば、小商いは病身、孀等のため農業ができず、渡世のあてのない者に一代限りで許可するもので、それ以外の者には免許しないものであると述べている。また、この触書には、次の指摘もある。近来、在方で料理茶屋体の座敷を建てて酒肴を売り、若者の遊び宿を営んでいる者もあると聞くが、不届き至極の事である。以後吟味の上きっと咎めを申し付けよとある。
 次いで、天保十三年五月の触書では、在方での売買交易は従来御法度なのに、近来諸種の商人が多く、俵物、布外字その他呉服物、古手等までも売買し、福井城下や三国湊の相場を調べ、値段が引き合わなければ他領・他国等へ運んで売買しているのは不届き至極である。また、老幼・病身で農業のできない者が小商いを認められると、本人だけでなく倅や孫などまでも永く免許されたと心得て、改めて願い出ないで小商いをしているのは心得違いであるから、吟味して改めよと申し渡している。すなわち、在方の商人が増えて多種の商業を営み、かつ城下や湊の従来からの商人組織に対して時には独自の流通ルートを立てて、値段次第では他領・他国とも売買するようになっていることが知られる。また在方の小商人は、一度免許されると家業として代々営業している者があることがわかる。このように天保期にもなると、農村における商人・商業がかなり一般化していた様子を右の触書から知ることができるのである。したがって一般の農耕する農民も右の小商人などを通じて商品の売買関係に入り込み、また「手励」にいそしんで、それを売るなど、本来の自給性の強い生活はもはや大きく変化していたであろう。
 なお、右の天保十三年五月の触書には別紙があり、それには、北陸道往還宿駅や他の街道の茶屋、および丹生郡吉江・吉田郡松岡・今立郡粟田部・坂井郡砂子坂等はこれまでどおりでよいこと、酒造・豆腐その他の往古より願い済み(許可済み)のものはこれまでどおりでよいことの二か条が例外として規定されていた。このうち砂子坂村の状況については後に述べる。
 以上、福井藩を例にとってみたが、他藩でも事情は似たものであったろう。他国出は小浜藩でも許可制であったが、十九世紀に入ると風儀が悪くなり奢侈に陥る等の理由で規制を図った。しかし天保飢饉を凌ぎかねて奉公や「外在稼」がふえ、それが飢饉後も減らなかったため、天保十二年春に原則として居村で奉公・日稼ぎをするよう触を出し、秋には町在に人馬改めを実施した。だが、その後も賃銭の高い他国へ出る者が増え、国元の農業奉公人が不足する事態が生じていた(『小浜市史』藩政史料編三)。



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