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 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      欠落人の取締り
 福井藩松平家の記録「家譜」をみると、享保十八年(一七三三)三月に、藩領と幕府領福井藩預所で飢え人に村々から米穀類や銀子などを拠出して救恤を行った報告があり、上・中・下領の「飢人」の数がわかるが、三領合わせて八四四八人にのぼっている。また、翌十九年、二十年には「欠落人」が多く出たことがわかる。いわゆる享保の飢饉の時の記事である。
 享保二十年三月の「在々困窮ニ付去暮・当春ニ至り欠落致候者之人数書」では、上領一四か村で五八人、中領一六か村で六八人、下領七か村で三九人が欠落したと書き上げてある。合計一六五人。そして中領の郡奉行は吟味を加えて欠落人の家内男女一五九人を、法に則って「居村追払」の処分に付した。欠落人はその後も発生し、翌元文元年(一七三六)四月には、中領で前年の暮に欠落した五二人の家内一二三人を居村から追い払ったと報告している。
写真20 散田百姓改帳

写真20 散田百姓改帳

 福井藩はその後も欠落人の取締りに意を払ったらしく、「家譜」にたびたびその記事がみえる。元文二年には、近年在々で欠落人が多くあるが、中には村へ立ち帰っている者もいると聞くので、密かに訴えた者に「俵子」二〇俵の褒美を与えると申し渡している。追放者が立ち帰ることはもちろん、それをかくまうことも禁止されていたが、それでも立ち帰り、かくまうことがあったのである。宝暦元年(一七五一)八月にも「就中去冬以来村々百姓共大勢令欠落」という状況があったが、この時は妻子の追払い処分は「去頃御法事の赦ニ御慈悲を以差免」と、特赦の扱いで居村に居住することを認められた。しかし寛政二年(一七九〇)六月には、追放者・欠落人が一日でも半日でも立ち帰った場合、それを見逃した庄屋は家内の者も共に追放し、家土蔵諸道具を闕所(没収)にし、長百姓も本人を三里四方追放などに処すると申し渡している。
 以上から、飢饉その他の理由で欠落する農民がこの時期に比較的多くみられたようであるが、しかし、中にはいったんは欠落しても居村へ密かに戻る者もあり、かくまう者もいた。おそらく、他所では生活していきにくい状況があったのであろう。無断離村・離農は領主の禁じるところであったが、農民の側でも村を離れて生きていける機会は、まだ充分に開かれていなかったと思われる。
 ただ、その後は、欠落人取締り令は「家譜」の限りでは少なくなる。村方史料の中に年貢を引き明けて欠落する個々の事例はいくつも知られるが、大量の欠落という状況は十八世紀中・後期に目立っている。



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