目次へ  前ページへ  次ページへ


 第二章 農村の変貌
   第一節 近世後期の農業と農民
    三 農間余業の展開
      藁仕事と苧外字
写真21 農間余業書上(部分)

写真21 農間余業書上(部分)

 まず、農民の一般的な農間余業についてみよう。若狭の遠敷郡玉置村では、領主の調査に応じて享保三年に農作業の詳細を書き上げているが(辻本又右衛門家文書 資9)、その中で農間余業については次のように答えている。稲仕事が終わると、まず男女とも山へ行って薪を採り、雪が降ると男女とも縄をない、それを小浜へ運んで売っているが、雪中の期間の飯米代にもならない。老人・女は苧をうみ外字にして町へ売り一年中で大体四〇〇匁ほど稼ぐが、苧は購入するため、その代銀を支払うと飯米代にもならない。年が明けると正月早々より馬沓を作るため牛馬一匹当たり七〇束の藁を打って年中一八〇〇足ほども作る。また男女の履物・草鞋は一人分平均三〇〇足を作るので一日に藁三束を打って沓・草鞋を平均一二、三足作っている。百姓分の者は、加えて野道具(農具)を作るので収入のある稼ぎはできないでいる。
 このように、玉置村の収入のある稼ぎは縄と苧外字が主で、他は自給用の人馬の履物類と農具を作っていて、余業収益は少なかったらしい。
 次に、吉田郡の清水村など二八か村は現在の上志比村と永平寺町にまたがる地域であるが、享和三年(一八〇三)に領主へ書き上げた「用水字家数男女励持山御改帳」(赤井富士雄家文書 資4)によって、男女の「冬励」をみると、三か村だけは男女とも「山はけミ」であるが、他の村では一様に男は縄・草鞋を作り、村によってはそれに加えて杪・柴を採っており、女は木綿・布外字の作業を行っているとしている。領主への書上ではあるが、実態もそれと大きく異ったものではなかったであろう。
 また、これらの村には主業が農業ではない商人・職人の数も記されている。すなわち、木挽一四人・大工五人・小商一〇人に、馬喰・鵜川漁師・室屋・草履草鞋売が各二人ずつ、問屋(職種不記)・外字売・鍋売・菓子売・渡守・勧進が各一人ずつである。ほかに「頭高持」の兼業する商人(職種不記)一人があり、また乞食番二人に乞食七二軒も記載されている。公認の乞食なら、冬励みではないが農業以外の職種といえようか。
 このように近世の中期には農具・生活用具としての藁工品や杪・柴、また木綿・麻布の加工を行っており、また職人・商人も村々の必要に応じていくらかは住んでいたのである。少数の草履・草鞋売や外字売がいることは藁工品や苧外字がいくらかは販売されていたことを示しているが、主には自家用に作られていたであろう。



目次へ  前ページへ  次ページへ