目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    六 勝山藩
      町方の変化
 富裕な高持層の中には商業のかたわら村方の田畑を集積し、寄生地主として成長を遂げる者があったが、一般町人の多くは負担に苦しみ、とくに約八割をも占める水呑層のなかには、小作百姓として小作料に苦しみながら生計をたてる者が少なくなかった。
 町方の動きが変化してくるのは村方と同じく十八世紀半ば頃からである。寛延元年(一七四八)六月、三町三三人の者が商売不振を理由に、他所商人が町へ入り込み、中店を張って商売するのを禁じるよう町年寄へ願書を提出した。とくに町方が賑わう三月朔日市・半夏生市など年九回の市日だけでも是非禁じてほしいという願いである(室屋笠松家文書)。
 一方、藩は、宝暦七年九月「漆実・多葉粉・菜種牙人(すあい)之定」(同前)を出し、他所仲買商人が勝山町で産物を売買するのは原則として自由、ただし次の三品、すなわち漆実は一〇〇匁につき一匁、煙草は同二分、菜種も同額を口銭として徴収するとした。なお、漆実だけは売人からも一匁の口銭を取ることになっていた。早速三町商人一〇八人の連名で中止を強く求めた。勝山町の商人は多くが仲買も兼ねており、資金の豊富な他所商人には到底勝てず、町方衰微となるのは明らかであるというのが理由である。この結果は不明であるが、おそらく新法は撤回されたものと思われる。煙草・菜種はとくに勝山辺在方の特産として名声を得つつあった産物であるが、藩はこの利益に着目したわけである。だが、町商人にとっては競争相手が増え死活問題となるわけで、全力を挙げて反対したのであろう。とはいえ大野・福井・丸岡・今立郡粟田部などの商人、さらに十九世紀に入る頃からは近江商人なども入り込み、農村の商品産物をめぐる勝山町商人と他所商人との関係はますます複雑になってくる。
図7 勝山三町の人足銀(1788〜97年)

図7 勝山三町の人足銀(1788〜97年)
注) 寛政10年「御用日記」(森家文書)により作成。                   

 藩の口銭政策に反対した町方は、同じ宝暦七年の四月、藩が屋敷地の一部を御用地として取り上げようとしたことにも反対するなど、藩政策と対立することをたびたび起こした。とくに先述の郷盛騒動が静まった翌寛政十年二月には、公事割銀や藩の中間方人足・破損方人足役について藩への軽減要求が高まった。実際、図7のように過去一〇年間を拾ってみても急激な増大をみていた。この結果も不詳であるが、町在ともに十九世紀に入ろうとする頃、藩政はいよいよ深刻さを増していたのであった。そして化政期の一揆では、村方と町方が連動した大きな力を発揮することになるのである(第四章第三節)。



目次へ  前ページへ  次ページへ