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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    六 勝山藩
      農村の困窮
 元禄十年に決定された年貢は、以前の幕府領時代と比較すればなお重い負担であり、御用金や普請課役の増加と相まって、農村は早くから困窮した。猪野口村の年貢を例にみると、元禄十年に村高に対して定免三割九分と決まったが、その後見立てを願って正徳五年三割二分、享保元年二割八分三厘となるなど、同村では早くに定免制そのものが破綻している。領内いたるところで年貢に苦しんで田畑を手放す百姓が増加し、村内の散田、あるいは勝山商人や他村有力百姓への越石が増加の一途をたどった。
 宝永元年二月、勝山町の茶屋次右衛門は、平泉寺村で集積した田畑の経営のため同村へ移住した。その持高は同四年で三五〇石にも達していた(梅田治右衛門家文書 資7)。同村では、寛政十二年六月「当村貧窮難渋之訳追訴願書控」(平泉寺区有文書)によると、村高二八七四石余の内八七〇石が勝山町など他町村に越石となっており、宝暦から寛政期までの約五〇年の間に潰れ百姓四七軒を数え、その田畑は五二三石余にのぼったという。
 宝暦二年七月二十日、領内総百姓は五か条の願書を藩へ提出した。その内容は、八月からの高値の先納手形、格別の蔵納俵拵え、駄賃銀増歩、近年に始まった蔵米持人足等について、それぞれ負担増を理由にこれらの撤回を訴えるものであった。そして、二代藩主信辰の治世と比較して、「百姓御取・万端御情なき」と藩政を批判した(中村吉右衛門家文書)。この頃から町・郷中ともに人々の不満が表面化し、藩との関係が対立的になってくる。その顕著な例が明和八年八月の検見騒動である。この時は各村々の庄屋層が中心となって団結し、幕府地方役の権威を背景に定免制から検見制に切り替え増徴を図ろうとした藩の意図を見事に打ち砕いた(第四章第二節)。
 天明飢饉後、社会はいっそう不安な状況となり、さらに寛政期になると、五年平泉寺・赤尾村の愁訴、八年町持山の奥山大杉沢の材木伐採に端を発した蓑虫騒ぎ(比良野八郎右ヱ門家文書)、その翌年には領内全村を巻き込んだ郷盛騒動が展開する。そして、十九世紀に入るや、文化八年(一八一一)・文政十一年(一八二八)と一揆が起こってくるのである(第四章第三節)。
 郷盛騒動は藩の村方支配のあり方が原因である。藩は村方支配のため、当初から通常二人の大庄屋を置いていたが、享保九年十二月十八日、村々と大庄屋の間で郷盛額をめぐって争いとなり、新しく確定した。しかし、宝暦四年閏二月には近年郷盛銀が増加するとの理由で改めて取り決め、総額銀五貫五〇〇匁とすることと、臨時郷盛の扱い方を確認した。その後明和五年に大庄屋は一人となった。
 ところが寛政三年十一月二日、藩は新規に松橋茂右衛門と比良野八郎右衛門の両人を大庄屋に任命し、村方支配の徹底をはかった。しかも八年九月五日、藩がそれまでは一人分しか認めていなかった大庄屋与内米を二人分認めたため、翌年、一年間にわたる郷盛騒動となったのである。落着したのは十二月のことであった。その内容は、定式盛銀は五貫二〇〇匁とすることとし、これに含まれない外盛五か条、不意盛九か条はその都度領内五三か村を代表する八か村の者が立合いの上決める、という内容である。あいまいな部分もあるが、村方の主張が相当程度実現したことになる。



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