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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    六 勝山藩
      窮迫する藩財政
 元禄十年の越訴騒動によって、年貢取立ては定免を基本としていたが、藩全体の年貢率は、引高などが変化するため、宝永五年に三割三分四厘六毛、天明元年(一七八一)に三割一分などとなっていた(勝山市教育委員会保管文書)。十八世紀後半のものと思われる「勝山藩領村々物成書上」(松井家文書資7)によると、年貢率は三割一分六厘、収入は取米・口米・小物成米等が計七七七三石余、外に夫銀一六貫目余と室役・糸役銀約一貫目(計約二八〇両)等となっている。その他酒運上については城下二五軒の酒座から元禄十六年に約三〇〇両の運上金が入り、宝永期にもほぼ毎年二〇〇両の納入があった(森家文書)。
写真17 元禄期の勝山町(「勝山町絵図」)

写真17 元禄期の勝山町(「勝山町絵図」)

 元禄十年の一揆の結果、藩は蔵米を直接大坂等へ廻米すると回答したが、これは長く続かず、結局勝山商人の手を経、福井・三国の米問屋等を通じて売却されるようになった。例えば宝永元年九月五日、城下室屋五郎右衛門・銭屋彦右衛門・大黒屋喜兵衛の三人が年内に納められる七分通、すなわち全体の七割の物成米の内七六〇三俵余分の支配を命じられ、福井米町問屋での月三度の平均米値段でもってその金額を藩へ納入するよう申し付けられている(室屋笠松家文書)。
 ところで、藩財政は貞信時代から問題を抱えていた。大坂加番役やその他次々と命じられる幕府の課役、領内では宝永六年からの城普請、たび重なる水害、正徳四年・延享三年(一七四六)・天明元年・寛政十一年(一七九九)などと続く城下の大火等、出費は増大する一方であった。藩はこれを年貢の増徴と藩札の発行、借用金・御用金等によって補おうとした。年貢に関しては正徳四年四月十九日、勝手不如意を理由に物成俵を四斗三升入りから四斗六升入りに改めた。明和八年八月には後述のように定免制を見取制に改めさせようとして失敗した。
 藩札の発行は城下富商を札元に任命し、すでに元禄期に開始されていた。ただし、藩財政が不安定なこともあって、同十六年十二月・宝永四年十月・享保二十年六月と換金が滞るなどの札所騒ぎが起こり、以後も藩札をめぐって領民に不安が絶えなかった。十九世紀に入ると福井藩札との比価の違いが問題となり、化政期の一揆の要因の一つとなる。
 財政の行き詰まりから明和四年十二月、藩は京都商人の高橋丈右衛門を呼んで藩勝手方を預けることにした。高橋は同六年二月、永平寺門前の鍛冶屋真柄清三郎を招いて札元を一任(勝山市教育委員会保管文書)、翌年には村々に約束していた用捨米を五年間半減、同八年には幕府地方役を招いて年貢の増徴策を強行しようとした。しかし、これは百姓方の一致した抵抗によって失敗し、しかも安永三年(一七七四)四月二十四日、御用金をめぐって勝山町の高橋借宅と富商七軒が打毀しに遭った(『平泉寺文書』)。そこで藩は安永八年七月、平泉寺玄成院の役僧に思い切った藩勝手方改革を依頼した。玄成院は引き受けるに当たり、藩主信房に仁政を求めるとともに、城普請の中止や諸出費の抑制、それに「御政事方江茂相加り御相談」したいなどと、一〇か条にわたり改革の要点を書いてその了承を求めた。また、「御勝手方御頼ニ付仕方相立候覚書」二一か条を提出して、坊主格から家老にいたるまで確認をとった(比良野八郎右ヱ門家文書 資7)。天明五年、玄成院は高橋に代わって勝手向を完全に任された。だが、どの方策もよい結果をもたらさなかった。かくて十九世紀には一層の社会混乱を迎えてしまうことになる。



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