目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    六 勝山藩
      藩政の推移
 勝山藩主小笠原貞信は、武蔵本庄以来六二年にわたって君臨してきたが、元禄十五年(一七〇二)七月十八日に退き、代わって嫡孫信辰が跡を継いだ。信辰は享保六年(一七二一)まで一九年間在任し、その後信成九年、信胤一五年、信房三五年、長教一九年、長貴四一年と続き、天保十一年(一八四〇)長守が継いで廃藩に及んだ。信成を除いていずれも比較的長くその座を維持できたわけで、藩主家は比較的平穏に推移したといえる。
 しかし、藩政は決して安定した展開をみせなかった。信辰は隠居した貞信の影響力が衰えた宝永七年(一七一〇)閏八月、小役人取立規定を定めた。正徳二年(一七一二)十月には「御用人」制を取り入れ、知行一〇〇石の山田太郎兵衛と能勢半助を家老次席として会所に列座させた。享保三年に徒士・足軽取立覚、同四年に近習順席覚を出すなど、藩政・職制の整備に努めた。だが、この頃すでに藩は困難な課題を多く抱えていた。同年三月、財政不如意を理由として湯浅九右衛門(一五〇石)・伴兵助(一〇〇石)など九人に暇を出したのはその例である。元文二年(一七三七)十二月、財政問題に長く関係し、上方商人からの藩借金にも尽力した家臣の藤田太兵衛父子が斬首処分とされたが(森家文書)、これは借金返済ができなかったことで藩が藤田個人に責任を負わせたのではないかと考えられる(笹屋文書)。

表30 勝山藩領の家数・人数

表30 勝山藩領の家数・人数

 農村では負担に苦しんで離散する百姓が増加し、町にも様々な問題が表面化するようになった。そのことは戸数・人口の変化に如実に現れた。勝山藩の戸口は表30のように変化するが、これによれば、家数・人数は年とともに増加し、天保飢饉前までのおよそ一〇〇年間に両方とも約一・三倍となる。ところが、家数をみると、村方の水呑数はあまり変化しないのに、町方の水呑数は約一・九倍となっている。これは後述するように、農村における小商品経済の進展や負担の過重等によって、村で生活できなくなった没落百姓や水呑百姓の多くが勝山町へ移住したことを意味する。これらが藩政の諸問題として具体的に現れるのは十八世紀半ば、宝暦(一七五一〜六四)・明和(一七六四〜七二)期以降のことであった。



目次へ  前ページへ  次ページへ