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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
     五 大野藩
      面谷銅山の再開
 寛政二年からは面谷銅山の再開発が始まっている。このころの面谷は村人手稼ぎの山で、少分の運上を上納していたにすぎなかった。利貞はこの年の四月十一日から面谷を巡見したあと、二十七日には年寄中村重助を面谷銅山取立用掛に任命した。六月に江戸に着くと、七月には勝手掛老中松平定信に再開発の手当金として五〇〇〇両の拝借を願い出た。これは奥州の金掘り伊助という者が面谷の間歩を実地に吟味して、水さえ抜けば莫大な出銅もあると保障したからであるという。翌三年定信は、面谷銅山見分役として支配勘定笹川運四郎等を面谷に派遣した。運四郎等は二月の初めに大野に来て、約一か月かけて調査を済ませている。運四郎等の報告を受けて幕府も貸与を決定し、十二月には五〇〇〇両の拝借を許され、大坂銅座で渡されることになった。返納方法は、来年から六か年賦で大坂銅座へ納めること、万一出銅がなければ領主勝手入用から上納せよというのが、幕府の条件であった(「御用留旧例抜書」武田知道家文書)。
 寛政四年正月には大坂銅座から五〇〇〇両も届き、月末から水抜きが開始された。十一月には「面谷銅山出銅当子年分六万斤」とあり(「利貞年譜」土井家文書)、期待どおりの出銅があったようである。それにともなって諸職人等の入山も相次いだようで、同六年には「近年屋敷数相増し、野菜物等不足」といわれるほどになり(池田與三郎家文書 資7)、翌七年の人別改めによると、金名子以下合わせて家数五二、人数三二八人を数えるに至っている(轟まつゑ家文書 資7)。その後九年十月に、大坂の泉屋吉治郎(住友友聞)に面谷銅山下請稼ぎが仰せ付けられ、翌年から引き受けることになった。また幕府からの借用金の返済は順調に進み、同十年までにすべてすましたという(第三章第二節)。



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