目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
     五 大野藩
      豪農商の登用
 天明八年四月二十日、町奉行月番寺田所右衛門から松田与惣左衛門、瀬古(鍋屋)清左衛門、尾崎(亀屋)茂右衛門へ、明二十一日四ツ時(午前十時頃)に会所へ出頭せよという指示が来た。与惣左衛門等が出頭すると所右衛門が、勝手不如意につき用人の武田半左衛門と小林元右衛門、吟味方の岡田重郎右衛門と自分が「御勝手御用掛り」に任命されたこと、さらにお前たち三人を「御勝手向御用掛り下働き」に登用するので、金の才覚のほか心付いたことを遠慮なく具申するようにいわれた。
 三人は二十六日五ツ半時(午前九時頃)登城して、後ろ暗いことや他言をせぬこと、町在へ権威を以て臨まぬことなどを誓った神文を済ませ、四ツ時から会所で初仕事に取り掛かった。この時重郎右衛門が「江戸表借金書付」を示したが、これによると元金のみで六四五〇両、利子が一年に約九六〇両にのぼっており、差し当たりこれらを解消することが三人に期待されたのである。その後三人は精力的に出勤して、所右衛門等と時には夜食が出される深夜まで「御用談」を繰り返している。具体的な内容はわからないが「大野表御積書」「出納御積書」のほか、江戸からもたらされた「積書」「御番所御入用積書」などを吟味し、江戸への送金方を審議したり「仮積」「当暮諸事之積書」を作成していることが知られ、おそらく冗費を節約して借財の返済方法などを立案し、歳入に見合った歳出の適正化を図ったのであろう。
 しかし実際には三人の財力が期待されたもののようである。例えば寛政元年、巡見使を迎える費用に三人で二〇〇両、盆前に二〇〇両、八月には三〇〇両調達している。この七〇〇両は十二月六日に元利ともに返されたが、十一日にはさらに一三〇〇両の調達が言い渡されている。見返りは帰国した利貞の褒詞と、高足や帯刀などの免許であった。
 寛政四年八月には松田与惣左衛門が下働きの御免願いを提出した。結局慰留されたがその言い分は、精一杯働いても大きな財政のことだから百姓商人の了簡では間に合わない、近年「差引」を一円「御断」(踏み倒すこと)になったから十月頃から世情が必ず「やかましく」なると思う、また今年も莫大な不足になり江戸送金、大野暮方とも差し支えるに違いない、ところが一向調達の心当たりがないというにあった。同五年九月には、宮沢(沢屋)由左衛門も下働きに任命されており、一層強化されたものとみられる。
 寛政六年四月中村重助が家老に昇任したが、今年の難渋は「下の力を以て御凌ぎなられたき思召」という理由で、松田与惣左衛門に三〇両、瀬古清左衛門に一〇〇両、尾崎茂右衛門に七〇両、宮沢由左衛門に五〇両の上納を頼み、そのほか町方一六人、在方二七、八人に合わせて七〇〇両を申し付けている。他方同十一年には町方に対し、たびたびの大火と米価高値によって困窮したとして厳しい倹約令を出し、家業に精出すこと、衣類・食事は粗衣粗食のこと、家作りは内輪にすること、とはいえ倹約しすぎてけちになってもいけないと、惣庄屋を呼んで申し渡している。
 このように百姓や町人に倹約を強制する一方、地主や豪商に頼る方法は以後も変わることはなく、利義の文化六年には、町人が七〇両献上すれば御目見御用達とされ、在方の袴御免は一〇両以上で一代、二〇両以上出せば代々認められることになった。



目次へ  前ページへ  次ページへ