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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
     五 大野藩
      人気不穏
 明和五年福井城下で大きな打毀しが起こったが、ようやく下火になった四月三日付で、大野藩の町奉行が福井藩の町奉行に見舞状を出している。また近辺の藩で騒動が起こると、必ず物見の者を偵察に派遣して様子を詳しく探索させていることも知られ、藩主が江戸に居ればそこへの報告も行われている。さらに大野町年寄の「御用留」などに、例えば宝暦六年の本保騒動、安永三年の勝山藩騒動、同八年の丸岡藩蓑虫騒動等の記録を見ることができる。このことは他領の騒動でも無視したり、無頓着ではいられなくなったことを示している。これらの結果として流言や風説が流行り、一寸したことが蓑虫と結び付けられて尾鰭が付き、現実味を帯びて語られながら結局虚説であったというようなことが、右の「御用留」にも一再ならず出てくるのである。必ずしも実力行使をともなうものではないが、このような社会状況を「人気不穏」「人気立」「不静謐」「騒ケ敷」「騒々敷」「物騒」などといった言葉で表現することがあった。
 落文(捨文)・張札の盛行もそのひとつである。寛保元年十月十六日、利知が張札の禁止を命じ、続いて利貞の明和三年九月六日にも、落文や張札を禁止し、もし見付けたら焼き捨てて訴えよ、という触が出された。安永三年にも訴えたいことは役筋へ訴えよと触れ、天明四年になると騒動は「村々町々の恥」だから、願いは穏便に申し出るべしといって、小百姓・地名子・借屋の者から請書まで徴するなどしている。この後も折に触れては同じ趣旨のことが布達されており、後を断たなかったことがうかがわれる。
 落文や張札は、匿名で書いた文章を人目に付きやすい所へ落としたり張り付けるなどして、政治向きや暴利を貪るとみられた商人の言動などを批判するものである。密告ないし直訴という側面を持つことは否めないが、自由に政治や社会を批判できない時代における庶民の有力な抵抗の手段と考えられている。落首や戯れ文がもっぱら皮肉や洒落の色合が濃いのに対して、より直截で厳しい表現であることが多い。
写真16 国元風説注進書の落書の部分

写真16 国元風説注進書の落書の部分

 なお張札などは庶民だけが行ったわけではなく、武士によるものもみられる。文化三年五月五日、大野の水落違イ垣で勝手御用掛岡源大夫を批判した落書が発見された(写真16)。二尺ほどの竹の先に挟んだ厚紙に書かれていたが、源大夫の屋敷辺りにもあって、今までも例がなかったわけではないが、とくに「重役」を名指しで批判したものだけに神経を尖らせている。往来から見えやすいところへ置いてあったので、端午の節句の人通りの多いときを狙ったのではないかと取り沙汰された(横田家文書 資7)。
 落文や張札は、幕末に近付くにつれて多くなり、内容も激しいものになる(第六章第四節)。後のことであるが、弘化三年には名前や住所のない「捨文」が多く、黙過できないという理由で上町口門外へ目安箱を設置し、毎月六、十六、二十六の三日箱を出しておくことにした。仕置きのためになること、役人の私利私欲、長引く訴訟などを訴えることを認め、私恨や虚偽、無記名のものは取り上げず、事によっては処罰するとしている。
 しかし匿名に意味があるのだからその後もなくなることはなく、翌弘化四年十一月には、役宅や門内に余りにも落文が多いので、「人気に拘り、甚御政事の妨に相成」るというので、以後は開封せずそのまま焼却することにされた。また内容ははっきりしないが、同じ月に一番上町の借家七三郎が「御政事向を悪口致」したとして、「戸〆」に処せられている。
 このほか藩の目に「人気不穏」と映じたものに古四郎の成長があった。安永七年十一月、古四郎の職分を定めることがあったが、この中で祭礼や盆、あるいは町在の吉凶、相撲や歌舞伎の興行に際し「百姓・町人へ立交り候」ことを厳しく禁止している。また寛政八年八月の村方取締り触では、浪人・物乞い・胡乱者が村内に立ち入ることを禁じるとともに、百姓と古四郎の「分かち」と「隔て」を厳格にし、総じて「風俗混乱」があってはならないことを強調している。そしてこれらは弘化四年にも再び触れられているのである。藩の意図に反して、百姓・町人と古四郎との「立交り」が確実に進行し、「分かち」と「隔て」が希薄になりつつあったことが理解されよう。



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