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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
     五 大野藩
      続く大火
 財政難に一層拍車をかけたのが火災である。火事については第四章第一節で詳しく述べるが、安永四年(一七七五)四月八日の火事は、「前代未聞の大火」あるいは「未年大変」などといわれているように(「御用留」)、城下はもちろん城内までほとんど灰燼に帰した。折角の囲籾四〇〇〇俵も焼失し、類焼人の内困窮者が三五八三人に及んだという。これの復興には幕府から四〇〇〇両を拝借して費用に充て、大工の他出を禁止するなどして昼夜兼行で事に当たっている。拝借金の返済は、翌年から一年に四〇〇両ずつ一〇年賦の約束で、天明五年十二月にようやく皆済したが、財政を大きく圧迫することになった。
 安永九年三月九日の火事は同四年ほどではなかったが、それでも「未年・子年火災引続」き(「御用留」)と併称されるほどの大火であった。寛政元年(一七八九)四月十七日にも、侍屋敷・町家の過半を焼失する火災が起こっている。この時は米や材木が高騰したようであるが、有効な手立てを講じることができなかった。また「御城主之御身分」として放置できないということで「救金」が下されたが、町年寄から町医師および寺院に金三分、家持に一分、地名子に三朱、借家には銀五匁と、文字通り涙金しか出すことができなかった。
 なお、火事に備えて藁葺きや萱葺きを止めて、板葺きにすることが奨励されたが、費用が嵩むためなかなか進捗しなかったようである。そのため寛政十年には本町通りは全部、七間町は本町角より五番町角まで、五番町は七間町角より全部、横町は五番町から横町持本通りの内側全部を、建替えを機に板屋根に葺き替えることが命じられた。しかし繰返し猶予願いが出されているのをみると、十分には実行されなかったらしい。このほか江戸屋敷もたびたび類焼しており、これの再建にも少なくない費用を要したことはいうまでもない。



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