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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
     五 大野藩
      財政の窮乏と御用金
 父利知の隠居と自分の家督が決まった寛保二年十一月、利寛は江戸諸役人へ直書を出した。それによると、大野は「全体領地不足、其上近年の物入」が多く、「当家年々不勝手、別て二三年以来必至と差し支え一家中は猶更困窮に及」び、「江戸表入用相減じ、大野表もなるべくだけ物入減少」するようにといっている(横田家文書 資7)。実際利知の時には借知が始まっており、元文五年参勤交代の費用に差し支えて六〇〇両の先納を命じ、寛保元年には財政難のために延び延びになっていた利寛の婚礼の費用として大野町中へ一二五〇両、天明五年町在へ五〇〇両ずつ、同七年には松田与惣左衛門等へ四一〇両の御用金を申し付けているほどである。おそらく入封直後から、財政的に余裕がなかったとみてよいであろう。
 その事情を年貢収入からみてみよう。まず年貢率(免)は宝暦六年(一七五六)について七二か村の毛付免が判明するが、一割以下が三か村、一割台が一〇か村、二割台二三か村、三割台一八か村、四割台八か村、五割台七か村、六割以上も三か村みられる(武田知道家文書 資7)。高免に直せばこれらより若干低くなるはずであるが、五割以上が一〇か村あり、一見すると殊更低くないようにも思える。しかし、六割以上の黒当戸・下秋生・若生子の三か村は、村高がそれぞれ九石・八石・七石余であり、五割台の七か村も佐開・中野村を除くと小村が多いから、大勢に影響は少なく、全般的にはやはり低免といわなければならない。
表27 大野藩年貢量の推移(10年平均)

表27 大野藩年貢量の推移(10年平均)


表28 文政3年(1820)の大野藩の収支

表28 文政3年(1820)の大野藩の収支
 表27は明和元年(一七六四)から明治三年(一八七〇)まで、一〇年ごとの「残米」の平均である。残米とは、正租部分に口米や諸色小物成のほか、一〇三〇石余りの新田からの取米などを加えたものから、二七三〇石四斗五升(明和六年のみ三一五七石二斗一升八合)の「諸色代米被下米」を差し引いたものであり、正租よりやや多く実際の収入とみられるものである。いずれも横這い状態で、しかも三割に届いていない。弘化三年(一八四六)以降は引高がわかり、大体四、五〇〇〇石にのぼっているが、その毛付免でみてようやく三割を超える程度である。個別の年でみても、最高が明治三年の一万二一六五石余で、最低が天保七年(一八三六)の一万〇一八九石余、一万石(二割五分)を割る年もない代わり、三割すなわち一万二〇〇〇石を超える年は一〇二年の内わずか一二回にすぎず、ほぼ限界にきていたことは明らかであろう。
 次に時期はややくだるが、文政三年(一八二〇)の大野藩の収支をみると表28のようになる。領知高四万石からの収納米が三万四八四五俵二升三合二勺、金に直して一万一六一五両と銀一匁一分六厘とあるが、表27の史料ではこの年の俵数を三万〇〇五五俵三斗六升七合とするから、実際の収支というより一応の見積もりとみられるものである。差し当たり一七二七両余の余剰が計上されているが、借財の利息だけで三〇八四両余と歳入の四分の一以上になるので、一三五六両ばかり不足し、諸運上等で差し引いても六三〇両余の赤字である。この時は家臣への知行が六四九〇俵で金にして二一六四両とされているが、天和三年の「分限帳」によれば「惣家中」六三一人に合わせて金六三八一両三歩とあるから(土井家文書、木下家文書)、ほぼ三分の一に減っていることになり、借知や減知が行われたことをうかがわせる。収入を多く見積もり、家臣の給禄を少なくしたうえでの赤字であり、危機的状況が進んでいるのである。
 借財は天保四年には一層増えており、総計九万六二〇二両(以下いずれも両未満切り捨て)、内訳は大野三万五四三六両、名目金一万四〇三四両、江戸一万〇九八五両、その他二万五七四六両、銀札引当一万両、利息だけでも一年九〇三九両に上ったという(「御積書」田村鋼三郎家文書)。表28の支出にほぼ匹敵する。
 借知や減知は財政難に直面した諸藩がよく採用したが、最も安易な方法といってよく、家臣からみれば文字通り「減給」であったから、主君への信頼さえ失わせかねないものであった。
 襲封直後の文化三年五月、国元から江戸にあった利義へ宛てた目付横田権三郎の注進によれば、「一躰不勝手の御家中自然と人気も宜しからざる哉に相流れ」るので、「御家中渡し方」に手を付けるようなことがあると、「如何様の変事出来」も計りがたいといっている。別の注進書では、福井藩の「風聞」として、半知にしたところ家臣が「彼是騒がしく、其上徒党の形」になったので、早速撤回したとも報じている(横田家文書 資7)。借知に対する家臣の態度がうかがわれて興味深い。
 この結果、勢い御用金などに頼らざるをえなくなった。大野藩の御用金は膨大と思われるが、なお全貌を把握できないので、宮沢家のもののみ掲出してみた(表29)。様々の理由で課されていることがわかるが、文化以降は調達金と献上金が中心になってくる。調達金は宮沢家の信用で各地の豪商から調達するものであったが、焦げ付くことも多かった。小浜での調達が多いが、野尻銅山の技術指導で親交のあった北前船主古河家からのものである。天保十一年と十二年にも「小浜古河へ大金調達致させ」とあり、大野藩と古河家の関係には深いものがあった。これらの働きによって宮沢家は、町年寄に任じられて三人扶持を賜り、帯刀なども許されたが、借金が嵩んだために弘化二年には藩に救済を願い出るほどであった(「御用并変事」宮澤秀和家文書)。

表29 宮沢家の御用金など

表29 宮沢家の御用金など




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