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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
     五 大野藩
      大野拝領百年
 土井利房の後大野藩主は、利知(初め利治)、利寛、利貞、利義、利器、利忠、利恒と続くが、ここでは大体利器の代までに止め、利忠以降は第六章第二節で述べる。利治から利知への改名は、徳川吉宗の孫竹千代が元文五年(一七四〇)家治を称したことにより、「治」の字を憚ったためである。また利貞まではそれぞれの実子であるが、利義は彦根藩井伊直幸の子息(井伊直弼の伯父)、利器は関宿藩久世広誉の子息で、いずれも養子として土井家に入った。
 大名であった期間は、利知が天和三年(一六八三)から寛保三年(一七四三)までの六一年間、利貞が延享三年(一七四六)から文化二年(一八〇五)の六〇年間と長かったが、ほかの三人はいずれも一〇年に満たない。このようなこともあってか、利知が奏者番になったくらいで、本家の古河土井氏ほどには幕閣に連なることもなかった。
 例えば利知は、貞享元年(一六八四)の和田倉門番を皮切りに、外桜田門番、本所材木倉火消、丸岡城受取り(『通史編3』第二章第二節)、日光代参、相模国の川浚え手伝、朝鮮通信使饗応の座敷奉行、西丸大手門番等を務めている。また元禄九年(一六九六)には大坂加番を蒙って山里丸を守り、以後も度々これに任じられることがあった。後のことではあるが、利忠が大坂加番の「御余沢にて、先ず急難相凌」ぎといっているように(大野市歴史民俗資料館文書 資7)、この役は藩財政に有利であったとされており、利貞などは積極的に願い出ているほどである。なお利知は元禄十年詰衆に任じられた後、享保七年(一七二二)から寛保元年まで奏者番に列したが、享保十七年吉宗に大名の名を披露する時言い間違えて、しばらく差控(遠慮)を命じられている。
写真15 土井利寛直書写真(首尾の部分)

写真15 土井利寛直書写真(首尾の部分)

 利寛は寛保三年四月に二五才で襲封した。父の隠居と自身の家督は前年決まったが、この時早くも家中一統に遠慮のない「忠言」を求めている(横田家文書 資7)。襲封直後の六月には代々の法令に増減を加え、江戸(一五か条)と大野(一七か条)で基本方針ともいえる「国家の大体」をまとめた法令を出した(「利寛年譜」土井家文書)。それらには、諸役人の綱紀の粛正を初め、領民の撫育と訴訟の迅速な処理、博奕・徒党・喧嘩などの禁止、文武の奨励、信賞必罰などがうたわれていた。また大野町在へもほぼ同文の三条からなる申渡しを行い、法令の遵守や親孝行、商売・耕作に精出すこと、博奕の禁止などを令している(同前)。この法令はこの後も継承された。父が長く大名であったため、その清新さが期待されたようであるが、二八才で逝去したため志を全うすることができなかった。
 六才で利寛の後を継いだ利貞が四一才になった天明元年(一七八一)は、利房が天和二年に大野を拝領してからちょうど百年に当たっていた。十一月三日に帰国した利貞は、十五日には大野城拝領百周年の祝儀を催した。二十三日には大庄屋や町年寄・御用達・庄屋など町在御目見の者全員を登城させて酒を下賜し、領内すべての家には酒代として一軒に銀一分六厘ずつ与え、自らは「代々領る今日百年を祝ぬる民もゆたかに幾久しかれ」と詠んで寿いだほか、年末には大赦も行うなどしている(「御用記」福井大学附属図書館文書)。
 しかし利貞とそれに続く利義・利器の時代は、十八世紀後半から十九世紀にかけての難しい時期であった。大野藩でも百姓の闘いが高まり(第四章第二節、第三節)、火災や不作にたびたび見舞われ(第四章第一節)、大百姓や有力町人を登用しての改革を試みるなど、様々な変化が見られたのである。以下その事情をみていくが、第六章第二節を含めて大野藩の叙述は、主として土井家歴代の「年譜」(土井家文書)のほか、大野藩庁および大庄屋・町年寄以下の「御用留」に拠っているので、煩瑣になるのを避けるため注記はごく一部に止めることにした。



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