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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    四 丸岡藩
      農村の荒廃と改革
 誉純時代、やや立ち直ったかにみえた藩財政も文政年間になると再び悪化し、さらに天保七年の大飢饉によって致命的な打撃を受けた。この飢饉の惨状は想像を絶するものがあり(第四章第一節)、町中には乞食があふれ、生活に窮した家臣が禁じられていた城堀の魚を捕って処罰された例もあった(「藤原有馬世譜」)。なお藩主誉純の跡を継いだ徳純も翌八年に急死し、かわって温純が藩主となっている。藩は家臣への諸給付を減じ、蔵米を少しずつ小出しにして与えたり、米の代わりに手形を与えてどうにか一時を凌いだようである。また温純は、一時中断されていた郷会所を再興して、年貢不納分を立て替えさせたり、その後の藩の必要諸経費を捻出させようとした(高倉三郎四郎家文書)。なお、この時再興された郷会所の頭取には、先の鰐淵三九郎に加え一本田村の山田孫三郎が登用され、二人の下で領内の有力地主一六人が惣代を勤めた(同前)。

表26 丸岡藩の調達金

表26 丸岡藩の調達金

 一方、大坂の伊丹屋四郎兵衛のほか「浜方四人」(浜四人)といわれた富豪加島屋熊七・大和屋清右衛門・難波屋覚兵衛・豊島屋与七郎や、福井藩領坂井郡鷲塚村の久保庄右衛門等に米金の調達を依頼するとともに、財政再建について意見を求めたりした(久保文苗家文書 資4)。なお「浜方四人」は協力して藩費調達を行っており、伊丹屋四郎兵衛は単独でかかわっていたようである(表26)。久保家は鷲塚村だけで一〇〇石以上の高を有するほか、近辺の村々に五〇〇石以上の越石を保持する豪農である。木綿・生糸の販売や、三国湊には五艘の廻船を所有するなど手広い商いによって巨額の富を築きあげ、丸岡藩以外にも福井・鯖江・勝山などの諸藩に多額の融資を行っていた(久保文苗家文書)。しかし、これら豪商からの借財をもってしても藩財政を根本的に立て直す改革にはつながらなかったのである。
 飢饉の後も財政状態は好転せず、温純による嘉永五年(一八五二)砲台築造や、丸岡藩最後の藩主道純の幕政における活躍も多額の出費をもたらし、財政状態はますます悪化していった。領内の村々も荒地等が多くなって高持百姓も減少し荒廃の一途をたどった。例えば、文久三年(一八六三)坂井郡為安村では、百姓のほとんどが前年度からの不納分を抱え込み、不納分総額九貫六五八匁のうち同年には約二〇パーセントにあたる二貫〇四五匁を上納しただけで、残額にはその後毎年一六パーセントの利息が加算される状態であった(南保家文書)。農村の荒廃によって、藩は百姓への税負担をさらに強めることもできず、新たな殖産の手段も見いだせないまま領内外の富裕な百姓・町人からの借金に頼って、何とかその場凌ぎに藩財政を維持し、ついに「積年の大費、終に其債数万に及へり、実に返却の術なし」(「藤原有馬世譜」)という姿で明治維新を迎えるのである。



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