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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    四 丸岡藩
      誉純の政治
 安永元年、允純の死去により誉純が四歳で襲封し、天保元年(一八三〇)まで藩主であった。この頃の藩財政は極度に行き詰まり、すでに寛延元年に家禄が整理されたにもかかわらず、宝暦・明和期になると一〇パーセントから二〇パーセントの借上が行われた。さらに安永二年には、家禄をすべて均等にして家臣一人一日に一定の扶持米を支給する「面扶持」制度が採用されるにいたった(「藤原有馬世譜」)。この制度は、まさに封建的な家禄制度を否定するものであり、導入せざるをえなかった藩財政の苦しい状態がうかがえる。なお、理由はわからないが、この制度は一年限りで中止されている。
 家中からの借上にも限界があり、安永期になると、藩はやむをえず年貢米金の前納に頼る財政立直しを図った。しかし、百姓には年貢を先払いするほどの余裕はなく、結果として安永八年領内に大規模な百姓一揆を引き起こす原因となった(第四章第二節)。この一揆によって組頭(大庄屋)制度は廃止されたが、寛政(一七八九〜一八〇一)期になると誉純は、もとの組頭を中心に「郷会所」を設立させ、その連帯責任において年貢の取立てに当たらせた。当時領内において最も権勢を誇った地主、野中村の鰐淵三九郎を筆頭に、領内の裕福な地主一六人を惣代として選び、彼等を五人ずつ月番として、貧困な村々の年貢不納分を引き受けさせたり、臨時の課税を代行させたりして藩費を用立てさせたようである(高倉三郎四郎家文書)。この郷会所の制度は、一時中断したが天保二年には復活して幕末まで存続したことにみられるように、藩財政を維持する上で果たした役割は大きく、誉純時代も暫時的にせよ財政的に救われた感が強い。それに加え、寛政八年からは大坂の豪商加島屋作兵衛に藩の勝手向を引受けさせ財政を援助させた(「藤原有馬世譜」)。また、化政期になると丸岡城下の外字(綛)糸問屋は、尾張・美濃へ販売を広げるほど大規模な商いを行うようになったが(『丸岡町史』)、とくに千田屋卯右衛門・千田屋又兵衛などの御用商人から調達金を出させた。これらにより、これまで家臣からほとんど半永久的に取り上げていた借上分を、享和元年(一八〇一)にはほぼ返還している(「藤原有馬世譜」)。このことが物語るように、藩の財政は経済的な小康状態をかなり長い年数の間持続することができたと推察される。おそらく誉純の藩史・地誌の編纂、藩校の創設といった文化事業も、このような状況のもとで行われたのであろう。以下、誉純の功績について簡単に触れてみることにする。
写真14 有馬誉純像

写真14 有馬誉純像

 誉純は名君の誉れ高く二三歳で奏者番、四二歳で寺社奉行に就任し、二年後の文化九年(一八一二)には西丸若年寄にまで進んだ(「藤原有馬世譜」)。病弱な体ながらも重責を勤め、文政二年(一八一九)に退いた後は帝鑑の間詰となるなど、これまでの藩主の中では最高に出世した。また治世が長く事績についてもみるべきものが多い。誉純は奏者番に就任した頃から文教政策に力を注ぐようになり、寛政六年には儒学者関文太郎を江戸藩邸に招き儒教の講釈をさせたり、同十年にも丸岡へ招いて城中で読書・講義を行わせている(同前)。さらに文化元年、藩校平章館を開設し古学派の宮本応行をもって藩士子弟の育成に当たらせる一方(第五章第一節)、藩政史「国乗遺聞」「藤原有馬世譜」や地誌である「古今類聚越前国誌」などを編纂させ、家中の諸礼式の確立に尽力した。誉純は天保元年家督を徳純に譲り、同七年病没した(「藤原有馬世譜」)。



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