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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    四 丸岡藩
      窮迫する財政
 元禄十五年(一七〇二)有馬清純の死去にともない一準が藩主となってからも、窮迫した藩財政に好転はみられなかった。とくに宝永三年(一七〇六)・享保六年(一七二一)・同八年の洪水による田畑の被害は大きく、享保九年の冬には領内で大規模な百姓一揆が起こるなど(第四章第二節)、農民統制や財政政策に苦慮した(「藤原有馬世譜」)。一準は、宝永二年に領内で七か年の銀札通用を幕府に願い出て許され、両替札座を丸岡の銭座町と三国滝谷の二か所に置いて銀札の発行を行ったほか、元禄期に引き続き家臣の減知にふみきり財政難の緩和を図ろうとした(同前)。享保六年には、国家老は六八〇石、一門家は四八〇石にして、これまで三〇〇石から四〇〇石であった者は一律に一六〇石に、二五〇石であった者は一〇八石に、もと一五〇石から二〇〇石の者は一律八〇石に減じた。さらに同九年にも上級家臣の減知を行い、内匠家は六〇〇石、国老家は五五〇石、寄合組は三〇〇石と、すべて一律にした(同前)。また翌年には米価が下がったことで家中へ与える扶持米を二日分借上げたり(翌年廃止)、同十五年には家臣救済のため家中への米の貸付けを実施したが(同前)、どれも藩政の安定にはほど遠い結果に終わっている。
 享保十八年に家督を継いだ孝純も断続的に家臣からの借上を断行するほか、上級家臣の家禄を減らしていき、寛延元年(一七四八)には寄合組以上の上級家臣をすべて三〇〇石にならした(「藤原有馬世譜」)。なお同二十年には領内の坂井郡山口村山中の銅山開発も計画されたようであるが、結局着手しなかった(同前)。
 宝暦七年(一七五七)允純が藩主となると、清純時代に整った組頭(大庄屋)制度を同十三年から七か年廃止するなど抜本的な行政改革を試みたほか、明和五年(一七六八)には山口村での銀採掘を試みたが、成果をみずして病死している(「藤原有馬世譜」)。
表25 元禄8年(1695)の丸岡藩の歳入

表25 元禄8年(1695)の丸岡藩の歳入

 ところで、有馬氏が入封した当初の年貢の取立ては、本多氏時代の例にならって、五万石の領知のうち一〇か年を平均して四〇パーセント(五万俵)という高率の税収を見込んでいた(「国乗遺聞」)。しかし実際には、この本途物成に小物成米・小物成銀を加えても、それぞれ引高や引銀を差し引いた実収入は目標の五万俵に達することはなかった(表25)。延岡と比して狭小かつ生産性の低い丸岡領にあっては、四割の税収を期待すること自体が非現実的であったことは否めない(『通史編3』第二章第二節)。一方、丸岡領の特産物として豊原素麺、木綿、牛谷紬、鮎・鱈等があり(「国乗遺聞」)、なかでも木綿は領内各村でかなり大量に生産されていたようであるが、江戸中期以降次第に顕著になっていく全国的な領主財政の破綻の中で、藩財政の困難な状況を救うものにはならなかった。
 丸岡藩では享保期以降になると、豊凶にかかわらず数年間にわたって免(年貢率)を一定にする土免の村が増加し、免も藩領全体を通じて低率化していったことにより、藩の財政は百姓からの先納金や御用金・調達金に頼らざるをえなくなった。これらの増大が前記享保九年と誉純時代の安永八年(一七七九)の百姓一揆勃発の引き金となったのである。



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