目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    三 鯖江藩
      財政の窮乏
 鯖江藩の財政は詮勝の時代に入ってさらに深刻化し、藩士の給禄にも次のように大きな影響を与えた。すなわち、文化十四年に家中に対して五年間の半知(上米率五割)を命じた。加えて倹約を命じ自らも節倹の範を示したが、上米率は歴代藩主の中で最も高かった。また賄と称され、上米率四割四分、給禄は月給制とし、すべて金給という新しい給禄形態を二〇年にわたり実施している。
 また、鯖江藩は藩士の家督相続時に世減制をとっていた。しかし、「鯖江藩家中永禄定書」(間部家文書 資5)によれば、詮央から詮外字の代にかけて、財政難を理由に勤功による加増を認めなかったため、相続を重ねるたびに「格別之減知之族」が増えてきた。とくに「旧家」(詮房の代に召し抱えられた家臣)に顕著で、宝永元年(一七〇四)に召し抱えられた吉井家は、一一〇石から四回の相続で九人扶持に、同二年に召し抱えられた奥村家は、一四〇石から相続三回で八〇石に、同三年召し抱えの伊藤家は一八〇石から相続四回で一〇人扶持に減じられている(「御家人帳」)。このような状況をふまえて詮允は、家督相続は相違なく行うが勤功による加増はしない、小給の者には役料を支給するという定書を家臣との協約という形で制定した。ところが詮允の急死により、その実施は詮勝の代に持ち越された。詮勝は文政九年になって実施に難色を示したが、これは重臣たちの職を賭した諫止により、定書はそのとおり履行されることとなった。このことからは、詮勝が家臣の生活よりも藩財政の安定を優先しようとした意図がうかがえよう。
 深刻化する藩財政を抱えながらも、詮勝は幕閣の要職への道を進んでいく。この時期に藩財政を補う大きな役割を果たしたのが、町在からの調達金と御用金であった。調達金は文政九年に詮勝が奏者番に就任した時に、村方一統から一〇〇〇両が祝儀献納されたのを始まりとする。天保元年には、領内の大庄屋以下一〇四人の代表に財政再建への協力を依頼し、同年二二〇〇両余、同三年一八〇〇両余、同六年三三〇〇両余と献金が続けられた。同八年は天保飢饉の影響で、領内でも飢餓の状況が拡大し、二月に入り各村から救恤要請が相次ぎ、多くの餓死者を出した極限状況の年であったといえるが、七月に詮勝が大坂城代に就任したことで三〇〇〇両余の献金が強要されている。
 調達金に関連して天保十二年、藩は大庄屋からの願いを認める形で産物会所を設置し、専売制を導入した。それまで広く流通していた福井藩札がこの時期引替え不能となり、これに対応するため産物会所から江戸・大坂の商人へ紬・木綿・真綿・奉書紙等九品目を送り、直接取引により正金を得ようというねらいであった(飯田廣助家文書 資6)。翌十三年には産物会所の運営円滑化のため、鯖江古町に両替店をおき藩札を発行した。これらの主体は町方有力商人や大庄屋層であり、藩が商品の生産過程から売買までを完全に統制し利益を独占するものではなかったという。そのため、とくに大庄屋層には相当の剰余が残され、多額の調達金の徴収を可能にしたようである。この後も、藩は恒常的に祝金・拝借金・江戸運送金などの名目で調達金を徴収した。万延元年(一八六〇)に鯖江藩への編入を命じられた丹生・今立・大野の三郡の幕府領一三か村の村々は、同藩の多額の調達金賦課を理由に団結し、嘆願を繰り返して強硬に編入に反対している(山本喜平家文書 資5)。
 また、詮勝が大坂城代となった天保八年には、大坂銀主鴻池善右衛門家から一万二三〇〇両と多額の御用金借入を行っている。鴻池との借財関係は文化十三年から始まってはいるものの、それまでの借入は天保七年の一二〇〇両が最高であった。詮勝の大坂城代という幕閣要職の権威と畿内に役知一万石を得たことを背景として、参内上洛費用・藩財政の補填・築城費・江戸運送金等の名目で同十四年までに総額五万両余の借入を行っている。ところが、畿内の役知一万石は天保十一年に上知され、同十四年詮勝が西丸老中を解任されたため、藩は担保能力を失った。翌弘化元年藩側は一方的に一〇年間の返済延期を通告するが、鴻池側はこれを拒否し借財関係は断絶した。
 嘉永二年から返済不能となっていた旧借整理を条件に再び借入が始まるが、新たに合意した返済方法の中で年貢米引当や大庄屋に連帯保証を負わせる方法がとられたという。前述した調達金や専売制実施・藩札発行とあわせ、もはや大庄屋層が藩財政運営にとって欠くことのできない存在となっていた。この時期江戸での借財も累積しており、藩財政は急速に悪化し破綻へと向かっていく。表23・表24に安政五年時の一か年の収支見積と藩借財を示した。これによると藩の歳入約二万両のもとで、借財総額は約一八万両にものぼり、まったく返済のめどが立たない状態となった。頼みは調達金であり、この年三月に大庄屋・町名主・陣屋付庄屋以下村方・町方の有力者に対して改革への協力、すなわち調達金を命じている。
 文久二年(一八六二)詮勝は「御勤役中不束之儀有之」(「鯖江藩日記」)との理由で、老中在職中の追罰をうけ領知のうち一万石を没収され、隠居謹慎を命じられた。今立郡一一村・丹生郡五村・大野郡九村の計二五か村が上知され、詮勝の二男詮実が四万石で家督相続を許されたが、これにより藩財政は完全な破局を迎えることとなる。元治元年(一八六四)には鴻池ほか大坂銀主への返済は完全に停止した。

表23 安政5年(1858)の鯖江藩の収支見積書

表23 安政5年(1858)の鯖江藩の収支見積書


表24 安政5年(1858)の鯖江藩の借財

表24 安政5年(1858)の鯖江藩の借財



目次へ  前ページへ  次ページへ