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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    三 鯖江藩
      藩政の改革
写真13 間部詮勝木像

写真13 間部詮勝木像

 詮勝は詮外字の第七子、三男として文化元年に生まれ、兄詮允の急死により一一歳で家督を相続した。文政九年に奏者番を拝命し、幕閣において破格の昇進をとげるきっかけをつかんだ。以後寺社奉行、大坂城代、京都所司代を歴任し、天保十一年(一八四〇)西丸老中に昇進、加判の列で大御所家斉付(翌十二年からは世子家定付)となった。これにともない、無城から城主の大名に格上げされ、同年幕府から築城の許可がおりるとともに、築城費五〇〇〇両が下賜された。詮勝は家臣への書下げで、藩祖詮房以来の「重き御役儀」(「鯖江藩日記」)についたと喜んでいる。なお念願の城建設については、築城御用掛りの任命や縄張り図作成などが行われたが、実現には至らなかった。
 詮勝の西丸老中在任は三年九か月に及んだが、天保の改革を進める老中水野忠邦を批判し天保十四年に解任される。一五年後の安政五年(一八五八)再び老中に登用され、大老井伊直弼の片腕として幕政に参画していくこととなるが(第六章第四節)、この間の一五年が詮勝による藩政改革が行われていく時期であった。
 天保十三年幕府の海岸線警備の命をきっかけに、藩は軍事方の強化を進める。安政元年に洋式兵制の採用を決め、同三年真定流が家法として制定された。軍制改革と並行して、天保十三年には藩校「進徳館」を設置し、学事の振興・改革も図られている。また弘化元年(一八四四)には京都の心学者柴田一作の講義を聴講させ、嘉永三年(一八五〇)には心学舎謙光舎(謙亨舎)を創設して、心学を普及させる政策がとられた(第五章第三節)。この心学普及の中心人物は、勝手用人でのち謙光舎主を命じられた小倉喜藤兵衛である。
 「御家人帳」(間部家文書)によれば小倉家はもともと小頭以下の卒分の家であり、喜藤兵衛の祖父の代に士分に取り立てられ、勘定人や代官を勤める下級武士であった。五両三人扶持の家督を継いだ喜藤兵衛は、勘定所勤めから蔵元方、代官、郡方役へ進み、さらに郡奉行・勘定奉行、勝手用人・産物方等の財政職を歴任した。家禄も、卒分から取り立てられた家臣としては異例の一六人扶持(役料二〇石)へと出世を遂げる。詮勝による人材登用の一端をうかがうことのできる例といえよう。



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