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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    三 鯖江藩
      藩政の状況
 享保五年(一七二〇)間部詮言の入封により鯖江藩が成立したが、詮言以降の間部氏は後に詮勝が登場するまで、まったく幕閣に連なることはなかった。若干の公役を勤めたほかは幕政の表面に出ず、一年ごとに江戸と鯖江を往復するごく普通の譜代大名であった。


図6 間部家系図


表22 間部家鯖江藩主一覧

表22 間部家鯖江藩主一覧

 詮言は鯖江の地を踏むことなく享保九年に死去し、詮言の兄詮貞の長男詮方が家督を相続し二代藩主となった。詮方は同十四年六月、藩主として初めて鯖江へ入部した。詮方の治政は宝暦十一年(一七六一)の隠居まで三八年間に及ぶが、その後も天明五年(一七八五)七七歳で死去するまで「大殿様」(「鯖江藩日記」間部家文書)として藩政に影響力をもった。
 三代藩主詮央は詮方の二男で兄の早世のため家督を継いだが、明和八年(一七七一)父に先立って病没した。詮央に男子がなく、弟詮茂が急養子となり四代藩主として遺領を継いだ。安永二年(一七七三)鯖江に入部し、翌三年には領内を巡見している。彼は天明飢饉のさなかの天明六年死去した。
 詮茂の子五代藩主詮外字は一六歳で家督を相続した。学問や武芸を好んだと伝えられ、天明八年には京都から芥川元澄(思堂)を招き、藩士に儒学を講じさせた。このことが後の藩校創設のもととなる(第五章第一節)。彼は文化九年(一八一二)に鯖江で死去し、その子詮允が翌九年家督を継ぐ。六代藩主詮允は父の遺志を継ぎ、後述するように藩士の家禄の制を改めるなどしたが、襲封後わずか二年の同十一年二五歳で死去した。このため末弟の鉞之進が急養子となり家督を相続した。これが詮勝である。
 間部氏の相次ぐ転封により成立した鯖江藩は、陣屋町建設の出費、「御物成半減」(第一章第一節)など成立当初からその財政は厳しいものであった。藩政の基礎を固める時期に当たる詮方の時代の「鯖江藩日記」(間部家文書)からは、凶作や年貢不納の増大により収入は増えず、家中からの上米実施や在方借用金で賄おうとするが借金の返済は滞り、越後村上での旧借すら返済できない等その窮乏ぶりがうかがえる。加えて宝暦五年には鯖江に大火があり、侍屋敷八三軒、足軽長屋四棟、町家一三二軒などが焼失、ようやく整備した町方の多くを失った。これも藩財政や家臣、領民の生活に大きな負担となった。
 このような状況の中で藩は、寛保元年(一七四一)広瀬組(今立郡)で定免制を採用し、以後これを少しずつ広げていった。検見役人が見分して免を決定する検見取は、村役人との間に特別な関係が生じやすく、これが露見して処罰された例もある。藩政初期の享保十二年に代官職五人中四人が同時に解任されているが、諸役人や大庄屋に対し賄賂の授受を厳禁していることから、収賄が原因であったと考えられよう。また、この事件直後、丹生郡丹生郷村の庄屋儀左衛門は新任の代官亀井又左衛門へ「音物持参」し、領外追放とされている。その亀井自身も元文二年(一七三七)在役中の「米金不足」を理由に解任されている(「鯖江藩日記」)。以上のような検見取のもつ問題点の一掃と年貢増徴をねらい、藩は定免制への切替えを進めていった。文化初年には一三〇か村の内八六か村で定免制が採用され、文政二年(一八一九)には全村で施行されるようになる。その後村々から検見を願い、認められる例はあるもののほぼ幕末まで大勢として定免制がとられたといえよう。
 しかしながら、このほか財政建て直しへの積極的な施策はみられず、定免制採用と重ねて出される倹約令のみでは実効はほとんどなかったと考えてよいであろう。
 



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