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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      藩債九〇万両
 斉善が天保七年に幕府に提出した嘆願書のなかで、「古借新借惣高九拾万両余之借財」(「家譜」)と訴えているように当時の藩財政は破局的な状況にあった。斉善の養子となった慶永は弘化元年(一八四四)に財政改革に着手するが、その手始めに清債方を設けて御内用達の商人に債務の精算に当たらせている。その際、藩当局として「借財書付」(松平文庫)をまとめているが、そのうちで債権者と債務額の全容を詳細に明示したものが、「御借財元寄帳」である。借財総額は九〇万五三八〇両余に及び(表21)、同年より七か年で支払うべき利息五万三〇六〇両余を加えると債務額は九五万八四〇〇両余に達していた。

表21 借財の種別と債務額

表21 借財の種別と債務額

 公金の比重が高いところに将軍連枝の大名としての立場がうかがえるが、御金蔵六万四五〇〇両と馬喰町御役所四万四九七〇両はいずれも無利息ではあるが、返済の急がれる借金であった。三都の借財はいうまでもなく大名貸が中心であるが、「大坂」のうちの一万二〇〇〇両には「一橋様御声掛ニ而御借入」、「江戸」の二五〇〇両には「一橋様・御借入」とあり、長年にわたる同家との深い結びつきがうかがえる。
 「加賀」の一二万両余のうち粟崎の北前船主木谷藤右衛門分は、弘化三年の「御借財残元」(松平文庫)によると一〇万五五三九両余に及んでおり、大名貸では最大の債権者であった。表21のうち「国許」に含まれる三国湊の商人三国与兵衛の運送金二万七六一〇両や小浜の金主古河・木谷からの借金にみられるように北前船の船主たちに対する依存度は大きかった。
 歴代藩主による累積債務の返済は、慶永が実施した藩政改革の重点目標の一つであったが、それについては第六章第一節に述べる。



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