目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      藩札の発行
 福井藩が初めて藩札を発行したのは寛文元年(一六六一)のことで、財政難に対処するためのものとしては全国的にみて最も早い例とされている(『通史編3』第二章第三節)。その藩札は半知の折に廃絶、元禄十五年に再発行されたが、それも宝永四年の幕府の禁止令で停止した。
写真11 福井藩享保十五年札(表と裏)

写真11 福井藩享保十五年札(表と裏)

 札所が復活をみたのは享保十五年で、それ以後幕末に及んでいる。同年札所奉行二人が任命され、福井町人の荒木・駒屋両家が札元と札座を兼ねた。また、領内の府中・粟田部・金津・三国の四か所に札場が設置され、元文二年には今庄にも設けられ五か所になった。ところで、元文二年には札所奉行が廃止され、備前屋吉右衛門・極印屋庄左衛門・青木甚兵衛・米屋善右衛門など八人が札所元締役になり、札所の運営が町方に委任された。「福井藩札所覚書」(駒屋節二家文書)によると各元締役は五〇〇両ずつを拠出して、別に領内の有力者百余人も加入金を提出している。しかし、寛保二年に両替に支障が生じて騒動に発展したことから備前屋・極印屋・青木が処罰され、米屋など五人も遠慮を申し渡された。同年の札所機構の改革で札所奉行が復し、その上席に札所目付も置かれた。駒屋・荒木の札元・札座はそのままで、町手代一〇人が札所の運営にかかわっている。その後、宝暦八年に大坂の富商牧村清左衛門が札所元締役になり、同十年には有力町人・百姓一八人が同役についたが、いずれも札所目付・札所奉行の監督下にあった。
 ここで札所の貸付業務とのかかわりにおいて福井藩が試みた新しい商業振興策についてもふれておきたい。宝暦六年に創設された他国商為替銀貸付会所がそれである(「諸事御用留抜書下書」松平文庫)。藩の出資分と町在より一軒につき年に銀二四匁を拠出させて成立した原資を元に希望者に貸付けを行っている。藩財政の悪化を防止することをも意図したもので、同十年頃には運用されていたが、その成否については定かでない。
 ところで、札所では銀札を発行したが、十匁札を初め五匁・四匁・三匁・二匁・一匁・五分のいずれも少額の銀札であった。銀札の発行額は「紙幣史料」(松平文庫)によると寛政九年の場合、銀高にして二〇〇〇貫でそのうち一〇〇〇貫が十匁札(一〇万枚)であった。
 領内における売買、藩への上納はすべて藩札を用いるものとし、札所における両替では銀一〇〇匁で銀札一〇〇匁五分を渡した。また、銀札を銀と交換するには銀一〇〇匁に銀札一〇〇匁九分の定めであった。



目次へ  前ページへ  次ページへ