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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      御用金の賦課
 半知以後において領民に対し御用金の賦課が始まるのは元禄十二年からのことであった。それでも当時は上方借金に依存していたが、宝永期に入ると同元年十月に「於京都御才覚可相調筈之処御手筈致相違」とあり、また同三年十月には「京都御用達共江御返金之儀御指支ニ相成」とみえ(「家譜」)、この頃から大名貸より御用金に重点が移っていった。
 御用金の用途は慢性的な歳入不足の補填もあるが、表20で明らかなように金額の大きなものに公儀手伝普請と江戸藩邸の焼失にともなう屋敷普請の費用があった。公儀普請には宝永元年の江戸城の石垣普請、享保元年の有章院(将軍家継)廟普請、寛保三年の日光東照宮の修復、天保六年の久能山東照宮の修復がある。享和二年(一八〇二)の幕府の船蔵普請と本所川浚えは用命の直後に藩邸が焼失したことで免除になった。藩邸再建の御用金には、安永元年・享和二年・文化三年の常盤橋の上屋敷、正徳元年の霊岸島の中屋敷がある。なお、享和二年については前述のように藩邸の焼失で公儀手伝の御用金は中止となるが、それは減額されて藩邸の普請用に振り替えられている。
 御用金は、吉品・吉邦・宗矩三代に集中している。ことに宗矩代では御用金としてもっとも金額の大きかった日光修復(六万五〇〇〇両)があり、それから五年後の寛延元年には御用金の賦課に対して領民の不穏な動きがみられた。当時の御用金の額については、『国事叢記』などで五万五〇〇〇両とあるが、一月中の賦課に対して二月に騒擾が起こり中止を余儀なくされている。御用金に対する領民の抵抗でもっとも深刻な事件として明和五年の一揆があった。こうして安直な方法ともいえる御用金の調達が困難なものとなっていった。江戸での資金調達もままならぬ八方ふさがりの状況の中で、後述するように明和七年以降福井藩では公儀の威を借りた大坂借金に活路を見いだすことになるのである。
 なお、御用金の賦課にあたっては福井町に対する依存度が高く、終始総額の三、四割を同町が負担していたことも付け加えておこう(表20)。

表20 福井藩の御用金・才覚金など

表20 福井藩の御用金・才覚金など



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