目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      行き詰まる藩財政
 福井藩における前期藩財政では、地方知行制を採用していて蔵入分(藩の直轄地)の少ないことが一つの特徴としてあげられている。綱昌代では給人の地方知行所が領知高四七万五二八二石の六二パーセントに達していた(『通史編3』第二章第三節)。

表19 福井藩歳入の推移

表19 福井藩歳入の推移

 半知以後その事情が一変する。地方知行が給人二六〇人のうち六〇〇石以上の三〇人に限られたことで蔵入分が激増し、宝永元年の「物成帳」(松平文庫)によると直轄地が領知高二五万石の七二パーセントを占めている。しかし、領知高が著しく減少しているため蔵入分の三口米(取米・口米・夫米の合計)は延宝三年(一六七五)の「成箇帳」(同前)の七万九三八二石余に比して宝永元年では六万八三七六石余であった(表19)。ところで、小物成については直轄地の増大を反映し、延宝三年の銀一二七貫に対して宝永元年では銀二二一貫と増大している。享保六年には松岡藩領を加えて領知高が三〇万石に増加したため、同九年の「取箇帳」(同前)における蔵入分の三口米は八万四六〇三石となり、延宝三年のそれを超えている。ただし、貞享三年以後の歳入分には地方給人を除く給人の給禄が含まれており、その比重が高かった。ちなみに「天保五午未申三ケ年平均御地盤御本立帳」(同前)によると蔵入分三口米二二万二二七四俵に占める藩士の給禄米は一二万三三二六俵であり、実に藩の蔵入の過半が家臣の給禄に充当されており藩財政を圧迫していたことがわかる。
 上掲の史料によると、天保五年から七年まで三年間の福井藩の歳入の平均は、借知七四六三両を加えても三万七三〇九両二歩であった。同時代の歳出をみると、天保四年の場合江戸入用が三万四九七一両二歩で、国・大坂入用一万四四五七両三歩を加えて総額四万九四二九両一歩であった。上記の歳入・歳出では年次が相違しているが、それを考慮しても歳入だけでは江戸入用も賄えなかったのであり、毎年一万両余の不足額を生じていた。すでに恒常化していた借知を加えても慢性的な歳入欠陥を補正できなかったのであり、その補填のために領民からの御用金や大名貸に依存し、幕府の援助に頼らざるを得なかったのである。大名貸については後述することにしたい。



目次へ  前ページへ  次ページへ