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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      借知と家臣団の困窮
 半知以後藩士の給禄は削減された。家臣筆頭の本多孫太郎は四万石が二万石に、次席の狛木工九〇〇〇石が四五〇〇石にといったように知行取は原則として半知となっている。切米の士も三〇石七人扶持が二五石五人扶持にといったように減ぜられ、卒の給禄の定額も徒士の切米一七石が一五石に、小算の一三石が一〇石にと、いずれも減額されている(『越藩史略』など)。ところで、藩士の給禄は知行と切米に大別されるが、切米は文字どおり藩庫(明里の米蔵)の蔵米を切り取って支給されるものである。年俸が建て前であるが、生活の便宜を考慮し春夏の二回に分けて給与されていた。
 給禄の削減に加え藩士の生計を圧迫したものに元禄七年から再び実施された借知がある(『通史編3』第二章第三節)。同年の借知は、京都の両替善五郎への調達金の返済に充当するためであった。「元禄七甲戌年より嘉永元戊申迄御借米歩通り書の覚」(『福井藩史事典』)によると一五四年間で借知のなかった年はわずかに三年にすぎなかった。藩財政の不足を補填する方法として給禄の借り上げが恒常化されたのであった。借知できわめて重い率に「半減」があり給禄の五〇パーセントが借り上げられており、宝暦十一年が最初で延べ三二年もあった。寛政五年の場合「半減」の借知がその後七年間も続いている。借知率としての最多は八歩で給禄の八パーセントが借知であり、正徳元年以降で延べ五三年もあった(表17)。もっとも「半減」とか八歩といってもそれはその年の最高の借知率であって、給禄に応じてその率は逓減している。宝暦八年についてみると借知率の最高は一割であったが、知行九〇〇石の皆川家では九パーセントを上納している。同家の知行所村別の上納額は表18のように八一石(二〇二俵二斗)であった(『国事叢記』)。

表17 福井藩の借知率の変遷

表17 福井藩の借知率の変遷


表18 皆川家知行所の村別借知上納額

表18 皆川家知行所の村別借知上納額

 福井藩では知行三〇〇石以上の藩士に持馬を常備するように義務づけていたが、天保元年、借知による負担を軽減するため一〇〇〇石以下の者の持馬を免除している。このように借知は軍役にも影響を及ぼしていた(『続片聾記』)。
 藩士の困窮を救済するため藩では非常用の積立金(内証金)や札銀を給禄に応じて貸与している。しかし、藩士の窮乏は著しくその返済も滞った。文化十四年における貸付銀の滞納処分についてみると、「御家中御貸銀半分御捨被下、相残ル半銀当丑暮・無利十五年賦上納」(「家譜」)と破格の措置を講ぜざるを得ない状況にあった。
 藩士の窮乏について具体例をとりあげてみたい。正徳二年、知行二万石の本多家に対して「父子共ニ府中江被罷越諸事致簡略何とそ江戸表勤并府中仕置等可被申付」(「家譜」)との沙汰があった。同家は在郷居住を許されている唯一の例であるが、福井詰を免除され、藩主の手許金から五〇〇両を下賜されて家政の立て直しを命じられたのであった。元文四年にも藩の救済をうけている。まず知行二万石のうちで借知の対象を一万石に軽減された。さらに借知の未納分である米三〇〇〇俵のうち一五〇〇俵の上納が免除され、貸付金の滞納額八二一〇両余についても二〇年賦返済に猶予されている(同前)。
 江戸住居の藩士は、借知率については軽減されていたが、給禄の支給がしばしば遅れることがあった。宝暦七年十二月十六日、生活に困窮した定府の藩士が失踪事件を起こした。巣鴨屋敷奉行柳下瀬兵衛の倅条右衛門は徒士勤めをしていたが、座頭からうけた融資の返済ができず、期日の直前に逐電したのである。定府の武士の窮乏が明るみにでたことで、事件直後の二十九日に藩主の秘蔵箱から内証金一〇〇〇両を放出し、藩士の越年資金に充当している(『国事叢記』)。
 文化二年十一月、連年の借知に耐えかねた大番組・新番組一同が借知の免除か手当の支給を要求して公然と上訴に及んだ。「当暮餅搗不申、来春年礼相勤不申、門外例式之餝不致、御奉公之外参会私之勤不罷出」と年頭の公式行事に不参加を表明し、目的達成のためには実力行使も辞さなかったのである(『続片聾記』)。



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