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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      家臣団と職制
 半知以後家臣団が減少したが、当時の人数は吉品代の給帳によると士分四七五人、卒など二三八六人の合計二八六一人であった。その後家臣団は享保六年に松岡藩を併せたこともあって幕末期の慶永代「嘉永五子年給帳」(松平文庫資3)では士分八二八人、卒など二八四五人の合計三六七三人に膨張している。ことに士分層の増加が顕著であった。この膨張が後述するように藩財政圧迫の一要因となっている。
 家臣団の構成と職制の関係についてみておきたい。享保四年頃の「吉邦公御代給帳」(『続片聾記』)に士分四七四人の家格と役職の対応関係が示されている。家臣団の頂点には府中(武生)二万石の本多大蔵がいた。それについで高知の上席に家老五人が記されている。家老は高知席一八家から選ばれ、家老につぐ重職の城代一人も高知席の者が代々就任している。高知の末席に水戸・山川・浦上・宇都宮四家が名をつらねているが、享保期の宗矩代「徳正院様御代御家中帳」(「越前史料」)では水戸・山川・浦上三家が高知から分出された高家に格付けされ、宇都宮家は寄合席の最上位に置かれている。吉邦代の給帳では高知席についで寄合席三一家があり、そのうちから書院番頭・大番頭・留守居番頭・小姓支配の重職についている。番頭は士大将で、番士を預かる番方最高の役職である。寄合席につづき番外七九家が名をつらねている。宗矩代の給帳では番外一〇一家が定番外一三家と役番外八八家に分かれているが、吉邦代ではいまだ分化していない。番外の士は寺社町奉行・「奉行」・新番頭・目付・普請奉行・先物頭・留守居物頭・徒頭・水主頭・郡奉行・作事奉行・使番など役方の要職や物頭に就任している。物頭は足軽大将ともいわれ、兵卒を預かる番方の要職であった。
 番外についで家臣団の中核ともいえる番士(平士)の集団があるが、これは書院番二組(六二人)・大番四組(一五二人)・留守居番二組(四七人)・小姓(二〇人)で構成されている。書院番士は膳番・手廻など藩主側近の役職を勤め、親衛隊となった。大番は先鋒隊で、平時にあっては金奉行・道奉行・上水奉行などの役職についた。留守居番は有事の際に国元の守備を任務としたが、役職としては代官・用水奉行・山奉行などがある。士分には以上のほかに諸芸をもって仕える医師・絵師など三三人が番士につづき、最末席には卒から昇格した新番三一人がいた。
 卒の職制については慶永代の「嘉永五子年給帳」によってみておきたい。卒など二八四五人のうち苗字をもたない一本差の荒子等九七三人を除いた一八七二人が卒にあたる。この卒も藩主に拝謁(目見)できるかどうかで、目見以上と目見以下にわかれ、目見以上の一八四人が上級の卒であった。この役職としては役方の小役人や番方の徒士があり、能力や年数によって士分に昇格も可能であった。目見以下は、給帳に名がみえる中級の卒三四七人と諸奉行や物頭のもとで人数で把握されている下級の卒一三四一人に分かれた。前者には小算・下代・坊主などの役職があり、後者は組之者(足軽)・小人などである。小算・下代は藩政の実務に熟達しており、組之者は町組・郡組などの職務にみられるように領民の日常の暮しに深くかかわっていた。



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