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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      奢侈と窮乏
 重富は寛政十一年に隠居し、嫡男治好が藩主の座についた。同年少将となり、父同様に文化八年(一八一一)に中将、文政六年(一八二三)に正四位下にまで昇進している。治好は奢侈を好み、能の名手でもあり俳諧をよくした。彼の身辺は万事につけて派手で、経費も嵩んだ(「真雪草紙」)。ちなみに彼は文化二年に藩の医学校済世館を創設し、文政二年には藩校正義堂を開設している。
 一方、藩財政は悪化の一途をたどっていた。文化元年に三都の商人の借銀を三〇年賦償還とし(「家譜」)、さらに文政七年には無利二〇〇年賦に証文を書きかえさせるほど窮迫していた(写真10)。
写真10 銀子年賦証文

写真10 銀子年賦証文

 文政二年十一月、世子斉承は将軍家斉の女浅姫を正室に迎えた。婚約成立は文化十四年九月のことで、翌文政元年五月にはその縁で二万石の加増があり、領知高は三二万石になった。その加増知二万石について同三年十二月に村替えがあり、幕府から下付された郷村帳末尾には「高合三万七千三百九拾九石九合 内二万石代知、壱万七千三百九拾九石九合込高」(松平文庫)と記されている。福井藩の領知高は表高三二万石でもその実質は三三万七三九九石余であった。天保元年浅姫の住居が焼失し、再建の費用として幕府から三万両を借用した。幕府はその財源に福井藩預所の税収をあてている。
 斉承は在職一〇年足らずで天保六年閏七月に二五歳で没した。若年で死没したので官位・官職は従四位上少将にとどまっている。斉承の世子於義丸は父に先立ち同年四月に夭折しているので、幕府は八月に将軍家斉の二四男斉善を後継の藩主とした。実は、斉善は養母に当たる斉承の正室浅姫の異母弟であった。斉善は襲封直後の十月に元服して正四位下少将に叙任された。初官の正四位下は福井松平家には前例のない高いもので、大名としては御三家のうち水戸徳川家の初官に相当するものであった。同八年には中将に昇進している。同年家斉は将軍職を嫡子家慶に譲って大御所となるが、彼は多くの子女を通じて姻戚関係を結んだ大名を優遇し、幕府財政破綻の一因になっている。福井松平家もその恩恵に浴した大名であり、斉善は同八年八月に領内の不作を理由に一万両、同年十月には江戸上屋敷の焼失で二万両、翌九年七月にも松栄院(浅姫)住居普請のために一万五〇〇〇両と相次いで公金の恩貸をうけている。このことは、同藩が公儀借金に依存せざるを得ないほどに融資の手立てに窮していたことをも示している。斉善は、天保七年に幕府に宛てた嘆願書のなかで、「古借新借惣高九拾万両余之借財」(「家譜」)と訴えている。「天保五午未申三ケ年平均御地盤御本立帳」(松平文庫)によると当時の歳入は約三万両であったから福井藩は歳入の三〇倍に及ぶ債務に喘いでいたことになる。斉善は同九年七月に一九歳を一期として没し、田安家徳川斉匡八男の慶永が後継藩主に迎えられた。



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