寛延二年、養父宗矩の死去によって七歳の於義丸が襲封した。宝暦五年(一七五五)元服して将軍の偏諱を賜り重昌と称し、従四位上少将に叙任された。半知以後世子の元服時の官職が侍従であったことと、養父宗矩の極官が従四位下であったことからみて重昌にいたって大名としての格式が高められたことがわかる。新藩主が少年であるため実父徳川宗尹が後見を命ぜられ、福井松平家は一橋徳川家と緊密に結ばれた。これ以後家風に変化がみられるが、このことについて後年藩主慶永はその著書の中で、「一橋家の風を学ふ御様子也、右ゆへに以前の質朴倹素は消却して公儀風の奢侈ニなり」と指摘している(「真雪草紙」)。襲封の年、藩主が未成年であることから福井藩預所一〇万六二三五石余は直轄領に戻された。
その将来を期待されていた重昌は宝暦八年に一六歳の若さで病没した。藩主が一七歳未満で死去するとその大名家は廃絶されるきまりであった。だが福井松平家については「家柄を被思召」(『国事叢記』)、特例として存続がはかられて、再度重昌の跡一橋徳川家の嫡男であった重富(重昌実弟)が養子におくりこまれた。重富は宝暦十年に元服し、重昌同様従四位上少将になっている。同十三年には成人に達したことで預所も復活し、越前の幕府領のうち八万三八三六石余の管理が福井藩に委ねられた。重富の在職期間は四一年の長きに及び、その間官職は天明七年(一七八七)に中将に昇進し、官位も致仕の前年寛政十年(一七九八)に正四位下に叙せられている。この官位は家康の孫である忠昌のそれに匹敵するものであった。この高い官位・官職は将軍家との濃い血縁関係によるもので、彼の仕えた三代の将軍は、九代家重が伯父、十代家治が従兄、十一代家斉が甥に当たっていた(図5)。 |