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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      宗矩の願望
 松岡藩主から本家を相続した宗昌の治世はわずかに二年半、享保九年四月に病没して養子千次郎(宗矩)が襲封した。千次郎は、藩祖秀康五男直基の孫に当たる知清の二男であった。享保六年幕命によって宗昌の養子となり、同十一年元服して将軍の偏諱を賜り宗矩と称し、従四位下侍従に叙任された。同十八年にはこれも幕命で先々代吉邦の遺子勝姫と結ばれている。勝姫との婚姻は秀康次男忠昌系の血統を絶やさないための配慮であった。同年宗矩は少将に昇進している。
 ところで、勝姫と結ばれた享保十八年は、前年秋に西日本を襲った蝗害による飢饉の年でもあり、越前もその例外ではなかった。福井藩では領内の飢人八四四八人の救恤のため米穀四〇三石余を放出している(「家譜」)。しかし、農村の疲弊は甚だしく、翌十九年冬から二十年春にかけて欠落者が続出し、藩ではその防止策に追われた。藩財政の窮乏も深まり、厳しい倹約の励行のため元文元年(一七三六)には勝手吟味役が設けられている(同前)。財政逼迫を加速させた要因に幕府の課役日光修復手伝がある。寛保三年(一七四三)八月から約一か年にわたり惣奉行狛帯刀以下士分六二人と卒三三九人、荒子六五〇人が動員され日光に駐在した。この手伝普請を果たすために町在に御用金六万五〇〇〇両が賦課されている。
写真9 松平宗矩書付(部分)

写真9 松平宗矩書付(部分)

 宗矩は、福井松平家の家格を昔日の高さに戻すことを年来の願望としてきた。寛保三年に正室勝姫が死去したが、彼は一族・重臣の再婚の勧めにも耳をかさず、実子のいないことから将軍家一族より養子を迎えるべく画策した。彼自身の言葉をかりると、「御上御近き御連枝当家江被為入、再昔に立帰候得者我等末家より当家間断を続候セめて追孝」(「松平宗矩書付」越葵文庫)と考え、その実現に尽力したのであった。延享四年(一七四七)、その悲願が叶って前将軍吉宗の孫に当たる一橋徳川宗尹の嫡男於義丸(重昌)が養子に決まった。宗矩は二年後の寛延二年(一七四九)十月に死没、ここに藩祖秀康の血統は絶えた。宗矩の晩年は多事多難で、その死の前年同元年二月には御用金の賦課が原因で福井城下で騒擾が起こっている。



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