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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      吉邦の治世
 吉品は宝永七年に七一歳で隠居し、実子がいなかったため兄昌勝の六男吉邦が藩主に就任している。就任時の彼の官職は侍従であった。半知以前、福井松平家の世子の元服時の官職が少将であったことからすると、大名としての格式が低下していたことがわかる。吉邦の治世の一端は、「明君言動録」(松平文庫)を通じてうかがえるが、その中に正徳元年(一七一一)の倹約令に関係する記事がみえる。彼は倹約とは無用を省くことだと諭し、与うべき俸禄・扶助米を減ずることは「吝嗇」であるとして、暗に前代の藩政を批判している。前藩主の言いなりになっていた重臣を戒告し、財政面で苛政を強行した「奉行」の田中条左衛門を退けている。田中は前述したように半知を機に給人の多くが取得していた夫米・口米を藩庫に吸収した。そのことに関し『続片聾記』では「五五〇石以下は御蔵出しに被仰付、夫米・口米相止取米計ニ而相渡、夫口は御取入に罷成却而御台所入は相増可申哉、右夫口相止候義御蔵出し面々永久之難義相成候」と述べている。

表15 半知以後の福井藩主一覧

表15 半知以後の福井藩主一覧

 天保(一八三〇〜四四)期の藩儒高野真斎は吉邦を高く評価し、「為君難論」(松平文庫)の中で当時の藩財政にふれて「五十万両之御借財ニ御座候処、御治世中ニ悉御償被遊、御逝去之節五十万両之貯金出来候と承候」と述べている。しかし、彼の在職一一年間では家中より毎年借知(借米)を徴していたし、町在に対しても宝永七年・正徳元年・享保元年(一七一六)に御用金を賦課している(後掲表20)。とりわけ享保元年には公儀普請として前将軍家継廟の造営のため八万両余の多額の出費があって藩財政が好転したとは考えにくい状況であった。それでも当時吉邦がすぐれた領主として評価されていたことは事実と思われる。享保五年、越前の幕府領のうち一〇万余石が福井藩の預所になったのは、将軍吉宗のもとにまで「御領分御仕置等宜」(「福井藩預所覚書」)とその評判が伝わっていたからである。
 吉邦は享保六年十二月に四一歳で急逝した。後継の藩主には幕命によって松岡藩主松平昌平が就任している。昌平は昌勝三男で、吉邦の異母兄にあたる。昌平は将軍の偏諱を賜って宗昌と改め、官職も侍従に昇進している。
 この結果、松岡藩五万石は廃藩となり、福井藩領は松岡領をあわせて三〇万石に増大した。吉邦と宗昌両代の領知目録を比べると、吉田郡で一万七五二八石余、丹生郡で一万二四〇〇石余、坂井郡で一万〇七七八石余と三郡で著しく増大し、半知で失われた大野郡もわずかながら回復している(表16)。

表16 福井藩領郡別一覧

表16 福井藩領郡別一覧



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