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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      半知の影響
写真8 松平吉品像

写真8 松平吉品像

 貞享三年(一六八六)閏三月、松平綱昌は将軍綱吉によって領知四七万五二八二石を没収された。しかし、福井松平家は徳川一門であるため、養父昌親が新たに越前のうち二五万石を再封せられ同家の存続がはかられた。この事件は「貞享の大法」とか「貞享の半知」として知られており、これによって福井藩領は半減するとともに、大名としての格式も著しく低下した。『越藩史略』では「元朝の列座、総下座、諱字を賜ふこと、葵紋を用ふること」などが止められたとしている。再勤した昌親は昌明と改めたが、綱吉の偏諱を賜り吉品と称するのは宝永元年(一七〇四)からである。家紋については当時の大名評判記『土芥寇讎記』に「紋桐」とあり、一時期、葵紋を用いることができずに五三の桐を家紋としていた。
 その後の福井藩にとって、綱昌改易の影響は大きく深刻なものであった。家臣団についてみると、この奇禍を理由に人員削減が断行され、士卒二〇四一人が召し放たれた(「半知ニ付家中減員覚書」松平文庫)。士分では綱昌給帳で七一二人であったものが、吉品代の「探源院様御再勤後給帳」(松平文庫)では三割強減少し四七五人になっている。厳しい処遇は残留した藩士にとっても同様で給禄が半減している。また、勘定方の「奉行」田中条左衛門の策が用いられ、知行制も改められた。半知以前ではすべての給人が地方知行であったが、貞享三年以降では六〇〇石以上の上士三〇人が「地方」にとどまり、五五〇石以下の約二三〇人は「御蔵出」になった。『国事叢記』の同年六月十一日条に地方と御蔵出の説明があり、「地方云ハ村渡、手前百姓免手前ニ而切、……御蔵出ト云者村ハ雖渡、御代官より免切万事指図ス」と記されている。地方の給人は免(年貢率)を定めて、給知の村方から年貢米を徴収しており、従来の権限を保有していた。それに対し御蔵出の給人は、蔵入地の村方から代官の指示に従って給禄米を受け取ることになり、しかも年貢米のうち夫米と口米は藩庫に収められ、減収となった。
 半知にともなう財政難を理由に上方商人に対して借銀の返済を断ったため、一時期大名貸がうけられなくなった。また、通用していた藩札も停止され、元禄十五年(一七〇二)にいたるまで再発行されなかった。このような財政事情のもとで、別邸御泉水屋敷が同十二年に修築されている(『通史編3』第五章第五節)。
 吉品の治世二四年間においてその後の藩制の骨格となる諸制度が整備された。法令についてみると元禄四年に「御用諸式目」(松平文庫資3)が編成されている。同書には六六の法令が集大成されており、「御家御条目」には藩士の規律が示され、「御領分在々御条目事」によって農民を統制している。



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