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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      忠義の所司代再任
 嘉永六年六月ペリーが開港を要求して浦賀に来航したのに続き、翌安政元年正月再び来航したことでにわかに緊張が増し、同年十一月には異国船の到来に備えて大和郡山藩などとともに小浜藩に対して京都警衛が命じられた(『続徳川実紀』)。この京都警衛が命じられるや、小浜藩では三浦又太郎を士大将とし、年寄・用人・組頭を初めおよそ四、五百人を京都に派遣した。またこの時、京都の三条に新たに作られる屋敷を普請するため、小浜から材木屋・大工・日用・職人などが京都に翌年二月まで動員された(団嘉次家文書、藤田潤治家文書)。
 京都警衛は、その後文久二年十一月まで八年間続くが、安政二年にはこの京都警衛や海防費用の調達を理由に家中への物成米が扶持方渡となり、知行一〇〇石に付き五人扶持が渡されることとなった。しかし、家中の財政逼迫を緩和するために三年後には扶持方渡が停止され、増借米に切り替えられている(団嘉次家文書)。
 こうしたなか安政五年六月、藩主忠義は天保十四年に続いて再び所司代となった。この所司代再任は、大老井伊直弼の政治路線のもとに攘夷派を押さえ込むためになされたものであった。同年九月、京都に入った忠義は、攘夷派の志士の捕縛に取り掛かった。最初に捕縛されたのは、かつて小浜藩士であり、外交や藩政についてたびたび忠義に建言し、また所司代再任を思い止どまらせようとしていた梅田雲浜であった。安政大獄の始まりを告げる事件である。
 この雲浜に続いて、京都にいた攘夷派の志士が相次いで捕縛され、攘夷派の公家も処分され、また徳川斉昭を初め水戸藩を中心に多くの一橋派の武士が処罰された。こうした幕府の弾圧に抗して、水戸・薩摩の藩士のなかで井伊直弼の暗殺計画が立てられ、安政七年三月三日、直弼は江戸城桜田門外で襲撃され命を落とした。
 井伊直弼の死後、幕府はそれまでの政策を転換させ、一橋派の諸侯の懐柔に乗り出すとともに、朝廷との融和を計るために孝明天皇の妹和宮を将軍家茂の室として迎えようとした。この画策を京都において主導したのが忠義であった。
 和宮降嫁は万延元年(一八六〇)六月に天皇の内諾があり、十月に勅許がおりた。忠義は、その功で同年十二月に朝廷より従四位上左近衛権少将に叙任され、幕府からは役知として二万石が与えられ、さらに翌文久二年三月には役知二万石のうち一万石を加増された。しかし、同二年に島津久光が国事周旋と朝廷警護を理由に上洛したのを機に、六月、忠義は安政五年以来の施策を失政とされ、所司代を罷免され、加増となった領知も取り上げられてしまった(「酒井家編年史料稿本」)。
 忠義の跡を受けて忠氏が藩主となり、文久二年十一月には七年余り続いた京都警衛の役も免じられた。といって小浜藩への幕府からの課役がなくなったのかと言えばそうではない。同三年正月には、のち十五代将軍となる徳川慶喜が入京し、次いで三月には将軍家茂が将軍としては二三〇年ぶりに上洛した。こうしたなかで同年三月に忠氏は、摂津の海岸の警固を命じられ、翌四月には摂津海岸の警固の代わりに若狭・越前の海岸守衛を命じられた。さらに、元治元年(一八六四)四月には山城八幡・山崎の警衛を命じられ、七月の長州藩が朝廷警護の諸藩の兵と衝突した禁門の変にあたっては、敗走する長州藩士を捕えるなど、京都周辺の警衛にあたり、国元でも国境を固める役を果たした(「酒井家編年史料稿本」)。なお、同年末から翌年にかけて西上した水戸浪士への対応が小浜藩にとって大きな任務となるが、これについては後に述べることとする(第六章第三節)。



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