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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      海防手当て
 寛政年間にはいると、異国船がひんぴんと日本の沿岸に現れるようになり、寛政四年にロシア使節ラックスマンが根室に来航したことで、緊張がいっきに高まった。こうした情勢に対して幕府は、海岸に領地を持つ藩に当面異国船を穏便に扱うよう指令するとともに、同三年、四年の両度にわたって異国船の警備を厳重にし、さらにその手当ての実状を報告させた。
 小浜藩では、寛政四年三月には調練定・押前定を新たに出し、四月にながく行われていなかった大規模な軍事訓練である調練を行った(鈴木重威家文書、『遠敷郡誌』)。また、翌年正月に異国船警備の体制を調え、「出船人数武器の定」として幕府に届け出た。表14は、その内容を示したものである(『遠敷郡誌』)。

表14 寛政5年(1793)の異国船手当

表14 寛政5年(1793)の異国船手当


写真7 大飯町松ケ瀬台場跡

写真7 大飯町松ケ瀬台場跡

 翌五年藩は、三月から四月にかけて家老である酒井内匠に命じて領内を巡視させ、軍事的な関心のもとに海辺を中心に集落と集落の距離、坂や峠の様子、山の高低、船掛り、城跡の現状、異国船のための遠見場所など詳細な調査を行い、次いで各地の有力な百姓や町人に異国船が到来し藩主が出陣という事態になった時には供をするようにと各郡の奉行を通じて命じた(平田勇文書 資9、清常孫兵衛家文書など)。
 文化五年、イギリスの軍艦フェートン号が長崎に突然侵入し、人質としたオランダ人と交換に食糧や薪水を強要し、まもなく退去していった。この事件は、それまで北方のロシアにばかり気を取られていた幕府を慌てさせた。おそらくこの事件がきっかけとなってのことと思われるが、小浜藩では、同年十二月、異国船の着岸を予測して領内全域に及ぶ異国船の監視体制を定めた。異国船を見かけた時には、いずれの村においても寺社などにある鐘や太鼓を三つずつ打ち鳴らし、それを聞き付けた村では同様に鐘や太鼓を打ち鳴らして、領内に広く異国船の到来を知らせ、その位置を幟の数で示すことにした(『遠敷郡誌』、『郷土誌大飯』)。
 フェートン号事件以降、エトロフ島でのロシアとの衝突、イギリス船の長崎・琉球・浦賀への相次ぐ来航、そして文政七年六月のイギリス船員の常陸大津浜への上陸など、日本を取り巻く状況は大きく動き出していた。しかし幕府は、こうした事態に対し、文政八年に異国船打払い令を出し、諸国に異国船の撃退と上陸する外国人の逮捕あるいは射殺を命じた。こうしたヒステリックとも思える幕府の方針も、イギリスと清国とのあいだでのアヘン戦争の勃発を聞き、天保十三年には撤回され、難破した異国船に食物や薪・水を与えるよう、その対応は大きく転換した。
 嘉永三年には朝廷が、幕府に対しいっそうの海防強化を求めている。藩は、同年四月、領内に異国船来航時の手配について触を出し、領内各地で百姓・町人を動員した異国船到来に備えて海防体制を強化し、さらに領内各地に砲台をもつ陣地である台場を相次いで築造していった(『小浜市史』通史編上巻)。



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