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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      小浜藩の天保改革
 幕府は、天保十二年五月、老中首座水野忠邦の主導のもとに「享保・寛政之御政事向」への復古を旗印に幕藩体制の立て直しを目指した改革を開始した。いわゆる天保の改革である。
 小浜藩では、天保十二年から十四年にかけて幕府からのものを含め多くの倹約令が家中、在、町をそれぞれ対象に一再ならず繰り返し出されている。ここでは、同十三年四月二十八日に各町のすべての宿老と五人組頭とが町役所に呼び出され申し渡されたものをあげておこう(団嘉次家文書)。その第一条では、「衣食住奢侈(しゃし)無之候様」に申し付けてきたにもかかわらず、それを守らない者が多くみられるが、公儀においても「風俗質素筋、別而厚く御世話」されている時でもあるので、「領分中幤(弊)風を改、質素之古風ニ立戻」ることを求め、倹約令の原則を示している。二条以下では町人の服装・履物・装身具の制限を詳細に規定し、振舞い・参会での飲食の質素化を命じ、家居普請が華美になることを禁止している。
 幕府の天保改革の主要な政策の一つに人返しによる農村復興策があるが、小浜藩でも、天保十二年に幕府が実施した農村建て直し政策の趣旨に従って他国奉公の禁止とそのための人改めが実施された。そこでは、他村や他国に出ることで自らの田地の手入れにも、雇人の必要な高持百姓の耕作にも支障が生じ、また外へ稼ぎに行くことによって風儀や人柄が悪くなるとして、他国での奉公・外在稼が禁止され、男女ともなるだけ居村で奉公することが求められた(吉岡小兵衛家文書)。そしてこの趣旨を徹底させるために、九月から十月にかけて村々家別に厳重な人馬改めが実施された(熊川区有文書、野瀬仁左衛門家文書、団嘉次家文書)。
 また藩は、衰微した農村を立て直すために様々な施策を実施した。まずそれまで村々での川除は郡方・郷方の立合でなされていたものを川除奉行を新たに設けそれを専管させ、また各郡一人であった郡奉行を一人で二郡を管轄させることで、農村支配組織の効率化・簡素化をはかった。次に、近年なおざりとなった植付目録の記載を厳密にするよう命じ、天保十三年五月には「勧農方」を設け、その下役の者を廻村させている。さらに八月には、年寄の都筑喜兵衛が代官を引き連れ領内を巡郷し、各組ごとに百姓を集め倹約を命じるとともに耕作に専念するよう直接申し渡している(清常孫兵衛家文書、吉岡小兵衛家文書)。
 物価引下げについても、小浜藩は幕府の政策に従い、天保十二年十一月に「諸色」の値上げの禁止と値段引下げを指示したのをはじめ、薪値段、職人・日雇の賃金、家中奉公人の切米量を公定するなど、相次いで物価安定・引下げ策を実施した(吉岡小兵衛家文書、「旧藩秘録」)。
 幕府の天保改革では明確な形で認められないが、土佐藩や長州藩などでは天保改革の一環として家臣団の救済策が改革の一つの柱となった。小浜藩でも同様の動きがみられる。天保十二年八月、「永々艱難(かんなん)」を理由に同八年に始まった物成の扶持米渡しを一年に限って知行高通りに渡し、家臣の救済をはかったが、こうした一時的な措置では家臣の窮乏を根本的に解決する方策とはなりえなかった。そこで翌十三年四月、「上之勝手」のみ改善されても、家中はいうに及ばず百姓・町人まで難渋しているのでは勝手向が直ったとはいいがたいとして、全面的な改革である「仕法替」が宣言された。この「仕法替」の中核は、家中一統の借財を藩が引き受けることで家中の困窮を救済しようとするものであった。この仕法は、家中の借財を貸主である町人らに転嫁したため、長くは続かず、七年後の嘉永二年に終わりを告げた(団嘉次家文書)。



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