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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      文政の仕法
 明和七年の調達講の失敗ののち寛政五年までしばらくのあいだ領内への御用金賦課はなかった。しかし、寛政五年に再開した領内への御用金の賦課は、このあと幕末まで連年のごとく続く。こうしたことに示されるごとく小浜藩の財政は、何度かの財政改革の試みにもかかわらず良好なものとはならなかった。
 この時期の御用金賦課は、文化十年に藩主忠進が京都所司代であったことによる費用の増大と米価安による財政の窮迫を理由に課せられた二万両の冥加金や天保三年の日光修造手伝いの上納金、同九年の江戸城西丸炎上の手伝金一万五〇〇〇両など依然として幕府の課役にともなうものもあった。しかし、ほとんどが連年の賦課であったことからも推測されるように、むしろ小浜藩の年々の財政運営に密着したものであり、多くは一時的な金繰りのための調達であった(「酒井家編年史料稿本」など)。このような調達金は、他の御用金とは区別され当座調達とも呼ばれていた。
 文政十一年一月、藩主忠進が死去し、忠順が十一代藩主となるが、この時点での藩の借財は三〇万両とも四〇万両ともいわれる莫大な額となっていた。その前年、藩は大坂・京・大津の貸主に対し一〇〇〇年賦による借財の返済を申し入れるが断られ、やむなくこの年、緊縮的な財政改革にとりかかった。まず、貸主に三〇万両余りの借財の返済と藩が貸主に与えていた一万五、六千俵の扶持米の給付延期を求め、次に家中への物成米の渡し方を五か年のあいだ知行高一〇〇石につき五人扶持とし、みずからも幕府へ届けて「拾万石之御格式」を差し置くことの許可を得て、七か年の「御内向省略」を実施することにした(酒井家文書、古河家文書)。
 年限開けを翌年に控えた天保三年になっても財政は好転の様相をみせないなか、幕府からは日光修造の上納金が命じられたため、省略の年限をさらに五か年延長し、家臣への扶持米渡しも一部で増借米に切り替えられたものの続けられた(熊川区有文書)。さらに家臣へ物成米の扶持米渡しはこの五年で終わりとはならず、年限開けの天保八年には再び七年の延長が指示された(団嘉次家文書)。



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