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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      米手形の発行
 江戸時代中期から後期にかけて諸藩では財政の不融通を解消するために、藩札の発行を盛んに行うようになった。小浜藩でも寛政十年八月、幕府に米手形(藩札)の発行許可を願い出た。同年十一月晦日、幕府から一〇年を限って米手形の発行が認められた。期間はその後延長され幕末まで差し止められることはなかった(『小浜市史』通史編上巻)。
写真6 米手形(表と裏)

写真6 米手形(表と裏)

 藩では、城下の小浜に米手形会所を設け、古河嘉太夫・木谷三郎右衛門・木綿屋仁左衛門・鍵屋平兵衛など小浜・西津の有力町人一五人を用達に任命し、翌寛政十一年三月一日から領内での米手形の通用を命じた(組屋文書資9)。
 この米手形は若狭一円を流通圏とし、三月一日以降の諸色売買・金銀上納物はすべて米手形を使用した。銀を米手形に換える場合には銀一〇匁を米手形一〇匁二分とし、米手形を銀に換える場合には米手形一〇匁三分を銀一〇匁とし、小物成の上納は正金銀で行い、米手形で納める場合には三分増しとし、米手形役所以外での米手形と銀の交換を禁じ、損傷した米手形は一割減で交換することになった。このうち銀と米手形の交換における二分減・三分増の法は同月十七日廃止され、金銀上納物を米手形で納める場合には二分増しとするよう変更された(清常孫兵衛家文書)。
 小浜藩の米手形は米札とも呼ばれ、当初は竹札=米一升代銀五分、松札=米二升代銀一匁、亀札=米一斗代銀五匁、鶴札=米四斗代銀二〇匁の四種の米手形があったが、慶応元年(一八六五)に五鶴札=米二石代銀一〇〇匁が出され、米手形は五種となった(「布令留」)。



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