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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      領内への御用金
 藩が、財政を賄うためにとったもう一つの方策は、領内への御用金の賦課であった。御用金には上納金と調達金とがあり、上納金は冥加金とも呼ばれ、上げ切りのものであった。それに対し、調達金は低利ではあるが利息を加えて返済するのを原則とした。しかし、調達金も当初利息が払われても、時代が下がるにつれてその返済も滞り、扶持米や格式を与えることで上納金と同様に処理されるものが多くなっていく。
 小浜藩が、領内に御用金を課したのは元禄十年が最初であり、これは四代藩主忠囿が美作津山城受取役を幕府から命じられた時のものである。宝永元年の御用金は、この年幕府から命じられた江戸城普請にともなうものである。

表13 小浜藩の御用金

表13 小浜藩の御用金

 表13は、小浜藩が領内に御用金、主として調達金を課した年を示したものである。御用金賦課の様子を全期にわたって眺めるといくつかの山がみられるが、最初の山は、享保期を中心とした時期であり、享保二年、三年は七代将軍家継廟の普請、同四年は五代藩主忠音の寺社奉行就任、同八年は大坂城代就任、同十三年は老中就任、同十六年は日光普請にともなうものであり、幕府から課された諸種の課役を勤めるために臨時に賦課されたものであった。
 その後しばらく目立った御用金の賦課はない。その理由の一つには幕府からの大きな課役がなかったことがあげられ、それが先に触れた家臣への本知支給を可能にしたと思われる。しかし、忠用の大坂城代就任を契機に再び領内への御用金賦課が始まり、それと呼応するかのように三井を初めとする京都の町人からの借金が始まった、二つ目の山である(賀川隆行「三井両替店と小浜藩」)。忠用の京都所司代就任、藩主の相次ぐ交替と続くなかでの財政は、家中からの借米、領内からの御用金、領外商人からの借金とで賄われた。こうした財政運営は、領内の疲弊と借財の増加とを生むことになった。
 借財が一一万両となった明和七年、藩は「勝手向難渋弥致方無之候、此上者領分中江任せ候間、心を合取立呉候様頼候」という藩主忠貫の言葉をもって、領内での調達講を計画した。この時、藩は、これまで無理なる調達金を領内に賦課し、またその返済については不手繰のゆえに不埒もあったが、今度はそうしたことのないことを約束するので、今回の調達講には協力するようにと触れ出した。この調達講に対して敦賀の村々で反対の一揆が起き、百姓の要求に屈する形で、中止された(山名文書、『敦賀市史』通史編上巻)。藩は、この調達講の中止以降約二〇年にわたって、財政窮乏化の進展にもかかわらず、領内への調達金賦課を行うことができなかった。
 しかし、寛政五年再び領内への御用金・調達金の賦課が始まる。そして、これ以降、御用金・調達金の賦課は幕末までほぼ途切れることなく続くことになる。この期の調達金の多くは資金繰りのためのものであるが、同七年の調達金は、借財が二四万両にのぼると噂されるなかで、「殿様御難渋」を理由に、賦課の総額はわからないが、敦賀四〇〇〇両、小浜三〇〇〇両、高浜一〇〇〇両、本郷五〇〇両が割り当てられた(「酒井家編年史料稿本」)。
 こうした動きとは別に、この時期に藩がとった財政上の積極策である野尻銅山の稼業は、かなりの利益を生んだが、まもなく鉱害のために休山に追い込まれ、藩の財政はいっそう窮迫化していた(第三章第二節)。



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