この時の借米は、延宝八年にいったん中止されるが、五年後の貞享二年(一六八五)には再び始まった。この時の借米は、知行高一三〇石の家臣に対しては二二俵であり、元禄五年まで続き、翌六年から半減され、同十二年まで続いた。その後一〇年余り借米はなかったが、宝永七年(一七一〇)から再開され、その量は二〇〇石取の家臣に対しては二九俵、江戸詰の者は二三俵であった。翌正徳元年(一七一一)には借米高が倍近くに増やされ、二〇〇石の者は四六俵、江戸詰の者は四〇俵となったが、同三年には宝永七年の水準に戻され、四〇〇石取の家臣の借米高は一〇五俵、江戸詰の者は九九俵となった(鈴木重威家文書)。
この家中借米は、延享三年いったん本知に戻されるが、本知での物成米支給はわずか三年だけで、忠用の延享四年の大坂城代、宝暦二年の京都所司代就任という支出の増大を背景に再び始まった(『拾椎雑話』)。この時期の家中借米は、知行一〇〇石につき五人扶持の割合で支給されており、家中の困窮はいっそう深刻なものとなっていた。明和五年にこの扶持米による支給が止められ、知行に準じる支給へと戻ったが、まもなく家臣への支給を知行から扶持米に再び戻し、知行一〇〇石に対し五人扶持とした。その後も家中借米は幕末にいたるまでその形態や量は変化するものの続いている。
家中借米は、藩にとって財政窮乏解消の決定的な方策とはなりえないものの財政逼迫を緩和するうえでは重要な施策であった。一方、家臣にとっては、自らの財政を直接圧迫するものであり、その窮乏は藩財政以上のものであった。 |