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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      小浜藩の財政と借財
 江戸時代の後期になると各藩とも財政が窮乏し、その対策を迫られた。そうした状況のもとで、多くの藩では年々の財政運営を円滑に行うために財政収入と支出とを正確に把握することにつとめ、財政状況を一覧できる資料を作成するようになった。表11は、小浜藩のそうした財政資料の一つから作成したものである(鈴木重威家文書 資9)。表11は、寛政十二年(一八〇〇)から文化元年までの五か年の小浜藩の収支を示したものである。年貢米高は全領からの年貢としての米・大豆・口米の高、家中渡米は家中および扶持人へ渡された物成米・扶持米の高、払米高は大津で売り払われた蔵米の高と領内での地払い高の合計、払米代金はその代金、小物成金は金銀で納められた小物成の合計、総収入は払米代金と小物成金の合計である。総支出は江戸屋敷での賄金、参勤交代のための道中金、小浜諸役所での入用金の合計である。

表11 小浜藩の財政収支(1800〜1804年)

表11 小浜藩の財政収支(1800〜1804年)

 この五年間は、江戸時代の後期にあっては比較的安定した作柄の続いた時期であり、凶作などがあった特異な年ではなく、ごく一般的な年である。この間の年貢収入は一三万俵前後、家中への渡米を除いた払米高は六万俵前後、払米代金と小物成金の合計は二万五〇〇〇両から三万両ほど、総支出も二万七〇〇〇両前後であり、この表を見るかぎり、不足を見るもののほぼ収支が賄われている。
 しかし、江戸での入用は、この総支出に表れた額のみではなく、実際に江戸に送られた金額ははるかに多いものであった。江戸への送金は、年々定まった額として一万七九七〇両であったが、この他に臨時の送金が年々あり、享和三年(一八〇三)の場合その額は五七五四両にのぼった。また、江戸屋敷での支出も各役所の出費はほぼ定額に押さえ込まれていたが、臨時の入用は、同二年のように幕府の「御手伝用(加茂社・貴布外字社修復)」も含めて二万〇九六三両に達し、到底日常の収入で賄えるものではなかった(鈴木重威家文書 資9)。
 小浜藩の財政が窮乏の様相をみせ始めるのは、二代藩主忠直の時期であるが(「御自分日記」)、本格化するのは七代忠用の頃からで、八代の忠貫の明和七年(一七七〇)には借財が一一万両に達し、「御家御潰レニ被及候御危急之御時節」と言われるまでの事態にいたっていた(鈴木重威家文書)。その後も小浜藩の借財は減少することなく、寛政七年には二四万両と噂され(清常孫兵衛家文書)、文政十一年には三〇余万両とも四〇万両ともいわれる額となり(熊川区有文書、古河家文書)、廃藩時の明治四年(一八七一)には三八万二四六五両に達した(「藩債取調帳」)。
 こうした財政を賄い、借財を返済するために小浜藩は、倹約を初めとする財政改革に取り組むとともに、家臣からの借米、町在への御用金賦課、江戸・大坂・京都・大津など各地での借金で対応しようとした。



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