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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    一 小浜藩
      江戸後期の藩主
 小浜藩の藩主は、五代忠音以降、忠存・忠用・忠與・忠貫・忠進・忠順・忠義・忠氏・忠禄(忠義の再禄)と続く。このうち忠音は、その性格の実直さが将軍吉宗の耳に入り、享保三年(一七一八)寺社奉行、次いで大坂城代となり、同十三年には老中に任じられ、死去するまで六年余りその地位にあった。七代忠用は、延享四年(一七四七)に寺社奉行、大坂城代、宝暦二年(一七五二)には京都所司代となり、十代忠進も、文化五年(一八〇八)に寺社奉行、京都所司代、次いで同十二年から文政元年(一八一八)まで老中の職にあった。十二代忠義は、天保十三年(一八四二)寺社奉行となり、翌年から嘉永三年(一八五〇)までと安政五年(一八五八)から文久二年(一八六二)までの二度にわたって京都所司代を勤め、安政の大獄を指揮するなど、幕末の幕府政治に深くかかわった。
 このように、歴代藩主の多くが寺社奉行・大坂城代・京都所司代・老中など幕府の要職を勤めており、このことは、藩政の運営にも大きな影響を与え、なかでも藩の財政にとっては大きな負担となった。
 小浜藩の領知は、天和二年(一六八二)の忠稠・忠垠への分知以降大きく変化することはなかったが、元禄十一年(一六九八)、忠勝以来の所領であった下野都賀郡佐野領五〇〇〇石余りが、越前の南条・今立郡内に移された。新たに所領となった村々は、南条郡では塚原・八乙女・社谷・中津原の四か村、今立郡では高木・横越・東鯖江の三か村であった。
 享保五年に間部詮言が越後村上より五万石で鯖江に入り、次いで鯖江に新城を構えることになり、その城地として東鯖江村が求められたため、翌六年に幕府の許可のもとに小浜藩領の東鯖江村と鯖江藩領であった今立郡の別司・小坂・寺中・北中津山の四か村とが交換されることになった。こうして成立した南条・今立一〇か村の小浜藩領は、忠音が大坂城代になったことで同十二年に摂津有馬郡内に一時移されるが、翌年忠音が老中に就任したときに再び元の南条・今立一〇か村に復した。新御領と呼ばれた南条・今立の所領は、幕末まで変化することはなく、その支配には敦賀郡の郡奉行と代官とがあたった(酒井家文書、「指掌録」)。
 領知支配のもう一つの変化は、天和二年以降本藩である小浜藩の役人によって支配されてきた鞠山藩と井川領の村々が本藩の支配から離れ、それぞれの領主による直接の支配に代わったことである。敦賀郡赤崎浦の鞠山に陣屋を構えた鞠山藩は、宝暦九年に小浜藩の支配から離れた。この鞠山藩の分郷に先立つこと二年前に忠垠以来の旗本酒井氏の所領も本藩の支配を離れ、敦賀郡井川村に置かれた役所によって直接支配されることになった。この旗本酒井氏の所領は、役所の置かれた地名にちなんで井川領と呼ばれたが、天保六年にいたって井川役所は廃止され、再び本藩に預けられた(『敦賀市史』通史編上巻)。



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