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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    四 福井藩の預所
      預所の変遷
 享保年間の預所の存在形態は前述のとおりであるが、その後の推移について「御預所増減之覚」(松平文庫)によってうかがってみたい(表9)。
 元文元年(一七三六)五月、直轄領六万五一二四石余が預所に加えられ、これで越前の幕府領のすべて一七万〇九七七石余が福井藩預所となった。ちなみに預所の地域的分布をみると、坂井郡八万三四五〇石余を中心に丹生郡四万九二〇七石余、今立郡一万一三〇三石余、南条郡一万一七七三石余、吉田郡一一九四石余、大野郡一万三六一六石余、越前加賀白山麓四三〇石余であった。ところが、寛保三年(一七四三)十一月本保代官所が再度設置されるにいたり、坂井・丹生・今立・南条四郡のうち六万四七四二石余が直轄領に戻され、預所は一〇万六二三五石余に減少した。このとき本保に代官所が建設されるまでの間の一時期は代官所は丹生郡気比庄村に置かれていた。次いで寛延二年十一月、新藩主松平重昌(於義丸)が幼年であることを理由に預所が全廃され直轄領に編入された。重昌が一六歳で夭逝したあとは再び一橋徳川家から重昌弟の重富が藩主に迎えられている。
 宝暦十三年十一月、重富が成人に達したことで預所が復活することになり、直轄領のうち坂井郡六万八五九三石余、吉田郡一一九四石余、大野郡一万三六一六石余、越前加賀白山麓四三〇石余合計八万三八三六石余が福井藩の管理に委ねられた。このことで家老酒井外記は諸有司に対し、「今度御預所被仰出御本望至極ニ被思召」(「家譜」)と述べており、同藩がそれを待望していたことがうかがえる。翌明和元年(一七六四)にはその態様に複雑な動きがみられた。七月、直轄領と預所の間で村替えがあり、預所から大野・吉田両郡が消えて坂井郡七万六九二九石余・丹生郡一万六九八五石余・南条郡一九二一石余を所管することになった。ところが八月西尾藩松平氏が越前国内に三万七〇〇〇石の飛領を得たことから坂井郡のうち一万二〇一三石余が削られている。
 預所と西尾藩領との間における支配地の入れ替えは、先述のようにその後もみられた。明和二年の預所増大、同七年の減少、つづいて寛政六年(一七九四)の減少、文政元年(一八一八)の預所増大、天保九年の減少はいずれも西尾藩領との入れ替えである。
 直轄領と預所の間の村替えについては明和元年に関してすでに述べたが、その後も寛政元年・文政三年・天保十一年に行われている。寛政元年の村替えで丹生郡の預所は六〇六〇石余に激減し、天保十一年のそれで丹生郡の預所は消滅した。南条郡の預所が消えたのは寛政元年のことで、預所が漸減していくなかで福井藩の預所は坂井郡のみに集中する結果となった。なお、寛政元年の時点において福井藩は越前の幕府領すべてを預所にすることを要望している。その理由には「御預所之儀御代官所与入会取締方等不宜候故、当時越前国御代官所之分一円御預り所之積り増高有之候得者取締等も宜趣」(「家譜」)と、預所による幕府領支配の利点をあげている。幕府は「一円御預り所」は認めなかったが、村替えで坂井郡に預所を集中させることによって福井藩の期待にもこたえたのである。
 預所における支配地の異動で注目すべきものに福井藩領との関係がある。文政元年五月、福井藩は二万石の加増をうけているが、その加増分はすべて坂井郡内の預所があてられた。ところが、文政三年十二月に幕府領と福井藩領との間で行われた村替えによってさきの加増分二万石の地は再び預所に戻され、新たに込高分も含めて三万七三九九石余(坂井郡三万五五四七石余・吉田郡一一九四石余・丹生郡六五六石余)が預所のうちから福井藩に引き渡されている。
 表9の享和三年(一八〇三)の七〇〇石の増加は、正月に旗本荻原家の知行所七〇〇石(坂井郡下関村)が蔵入地とされ預所になったことによるが、嘉永五年八月この七〇〇石が再び荻原家の知行所に戻された。
 これまでみてきたように預所は複雑な経緯で増減を繰り返し、村替えも頻繁に行われた。その結果、天保十一年以降において預所はすべて坂井郡に集中することになったのである。なお、明治元年(一八六八)二月に福井藩が北陸道鎮撫総督に宛てた報告書によると、越前国内の旧幕府領は一一万〇三六七石余で、そのうちの四万五三三七石余が福井藩預所であった(「家譜」資10)。



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