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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    四 福井藩の預所
      預所の年貢
 年貢の徴収において福井藩では安定的に増徴をはかることで成果をあげている。坂井郡高塚村の享保期の年貢割付状を事例に年貢米の推移を表示したが(表10)、それによると直轄領であった享保四年までには多量の引高がみられたのに対して、預所となった翌五年以後では郷蔵敷引(一斗五升)を除いて認められていない。また、免(年貢率)にも定免制へ移行する努力がみられ、しかも次第に高い免となり増徴に成功している。

表10 坂井郡高塚村の享保期の年貢

表10 坂井郡高塚村の享保期の年貢

 預所の管理は福井藩にとっても多少なりとも増収になった。幕府は大名に対して取米一石につき三升の口米の徴収を認めていたからである。預所一〇万五〇〇〇石の場合、徴収できる口米は三一五〇石になる。嘉永五年(一八五二)以降の幕末期の史料であるが、当時福井藩は四万五三三七石余の預所の年貢米一万九六六二俵を江戸に廻米し、四五五両の口米代金を得ていた(『福井藩史事典』)。
 福井藩が取得し得たものは口米のみにとどまらず、直轄領から預所に移った地域では短い期間ながら新税が課せられた例もあった。福井藩では領内に道銀・鷹餌代・雪垣代を課しているが、預所の村々でもそれが新設されることになったのである。享保六年八月、預所から再び直轄領に戻された丹生郡下三三か村の庄屋が連署している願書の中で、預所時代の迷惑な事柄として三点を列挙している。その中で道銀・鷹餌代・雪垣代にもふれており、「右之品々前々御代官所之節ハ無御座旨達而去秋御願申上候処、御家諷(風)之旨被仰付候ニ付迷惑仕候」と新税に対する不満を述べている(青山五平家文書 資6)。その怨嗟の声は幕府にも達していた。同七年十月、幕府代官小宮山杢之助は御側衆有馬兵庫頭への答申のなかで村方難儀の例として福井藩預所をあげており、「雪垣代・鷹餌等之臨時もの毎年相懸候由」と批判している(「地方問答書」『近世地方経済史料』八)。同十一年八月、幕府は百姓の不満を受けとめ、預所における道銀・鷹餌代・雪垣代の徴収を「向後相止可申」(「家譜」)と福井藩に通達している。



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