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 第一章 藩政の推移
   第二節 藩政の動揺
    二 福井藩
      農政の動揺
 十八世紀に入って藩財政の窮乏が加速し、年貢の増徴など収奪の強化によって農民の困窮も深刻なものとなっていった。享保二十年や宝暦元年にみられる欠落人の多発(「家譜」)や、寛延元年二月の「蓑虫」と称された百姓の不穏な動き(『越藩史略』など)などにそのことが如実に示されている。
 宝暦十一年にいたり福井藩では農政の刷新をはかった。四月に組頭制(大庄屋)を廃止している。「組頭共私曲有之、不宜取扱之趣百姓共内願も有之」と、百姓の訴えをうけての中止であった(「家譜」)。次いで翌五月には代官を一四人から七人に減らし、一人に二領を管轄させ、下代も五六人から四二人に減員している(同前)。代官制度の改正は経費の削減をはかったものであろう。さらに六月には郡奉行などが執務する「在方役所」を新設している(同前)。在方の行政・司法・警察を一手に所管する役人に郡奉行がいたが、従来同奉行の拝領屋敷が役宅を兼ねていた。在方役所の設置で、三人の郡奉行は山奉行・用水奉行とともに「役所江毎日相詰役筋之儀」を処理することになり、百姓に対する統制強化がはかられている。
 明和五年、越前における最大規模の一揆が生起したことで農政組織が再度改革された。翌六年六月には大庄屋制度が復活し、七年閏六月に代官も宝暦十一年以前の一四人に復している(「家譜」)。大庄屋は、農民支配組織の末端に位置づけられ、以前の組頭給が郷盛の中から出されていたのに対して、新制度の大庄屋は藩から毎年二〇俵の手当てが給与された。また、その人数も以前の組頭約四〇人に比べて少なく、金津奉行の所管地域で三人、郡奉行支配の上・中・下各領で五人ずつの合計一八人であった。その任務などは「大庄屋共江申渡候ケ条之覚」として六か条にわたって明示されている(片岡五郎兵衛家文書 資3)。代官の増員や大庄屋の再任は農村の掌握を徹底し、騒動の再発に備えるものであった。一方、大庄屋は天明期以降疲弊する農村において改革仕法の実施を指導し、時に国産奨励の推進にも当たっていた(同前)。



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