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 第一章 藩政の推移
   第一節 所領構成の変化
    四 福井藩の預所
      享保以降の預所
図4 坂井郡における享保期の福井藩領と預所

図4 坂井郡における享保期の福井藩領と預所

 福井藩預所は、享保五年六月に勘定所から渡された村付帳によると、高森代官美濃部勘右衛門茂敦より坂井・丹生・大野・吉田四郡のうち四万四八九九石余、石田代官柴村藤兵衛盛興より坂井・丹生二郡のうち四万三八五四石余、舟寄代官日野小左衛門正晴より坂井郡一万五〇七九石余の計一〇万三八三四石余であった。ところが、翌六年八月に村替えがあり、葛野代官小泉市大夫義真の坂井・丹生二郡二万七九二二石余を預かり、預所のうちから丹生・大野・吉田三郡二万五九〇四石余が直轄領に戻った。
 この村替えで確定した福井藩預所は、坂井郡のうち八万三四五〇石余と丹生郡のうち二万二四〇三石余の合計一〇万五八五三石余であり、坂井郡に預所が集中する結果となった。坂井郡内、とりわけ九頭竜川以北の地ではいくつかに分散していた福井藩領に、新たに預所が加えられたことで支配領域は一円的に拡大をみている(図4)。水野忠之は、享保六年の村替えに当たり、申渡しの書付の中で、「只今迄之御預ケ地村方最寄悪敷候ニ付此度割直し」(「家譜」)と理由を述べているが、割直しは福井藩の要請にもとづくものと考えられる。福井藩にとっては、三国湊という外港を含む坂井郡の地を一円的に支配することによる統治上の効果がきわめて大きかったからである。預所はその後も石高の増減を繰り返すが、いずれの時期も坂井郡が中心であり、ことに天保十一年(一八四〇)以降の預所四万六〇三七石余はすべて坂井郡内にあった。



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